広崎直人(Hirosaki Naoto)は、這いつくばっていた身体を、かなり無理をしながらひっくり返し、上を見上げた。

 しかし、焦点を合わせようといくら試行錯誤しても、目に入るものは輪郭が二重か三重にぶれて、全てぼやけている。
 だから直人はその努力を放棄して、思考に充てる時間を増やした。
 考えるという作業が出来るのもあと少しだ、せめて有意義に使うのがいい。
 げぶ、とあまり聞きたくない音が勝手に喉から絞り出され、直人はむせた。それだけのことが酷く神経に障る。

 脳が指令を出してからかなりのタイムラグ、その後でやっと、直人は頭を横に向かせることが出来た。
 喉に詰まって呼吸を阻害している血の固まりを吐き出し(意味があるわけはなかった、どうせ気休めにもならない)、ようやく細い息を吐く。ちっとも楽にはならなかったが、溜息としては合格だ。

 無様だな、と思った。

 視界が暗くなっている。だが、既に自分の目が閉じているのか開いているのかすらわからなくなってきていた。
 痛みがないのは救いだった。ただ、酷く体が熱い。
 全ての感覚が遠く、血の巡りも、頭の回転すら鈍くなっている。

 ――何か言い残すことはないか?ない。暇つぶしもできない。
 自分にとって大切なことは全て、刻んで残してきた。

 直人は無駄が嫌いだった。無駄を自分から丁寧に剥ぎ取っていった結果、直人はとてもシンプルな人生を手に入れた。そしてそれはとてもシンプルに失われようとしている。
 直人の持ち物に無駄があったとしたら、それは自身の名前だけだろう。

 名前、と直人は考える。

 結局、誰にも呼ばせることはなかった。名前があったことさえ、生まれてから大分後に知ったことだ。
 無駄な名前。
 個を識別するためでもなく(偽名か番号で充分だった)自己満足にも使えない(懐かしむという事はなかったから)、ただの、生まれたときにつけられたと言うだけの、名前。
 役に立たない、一度も使うことの無かった名前。気まぐれに、探し出した名前だ。
 それを今呼んでもいい気がした。一回ぐらい、使ってやってもいい気がした。
 今を逃したら、本当に無駄に終ってしまう。

「……ヒロサキナオト」

 思ったよりもはっきりと声が出せたことは驚きだった。
 予想では、あと二分ぐらいで死ぬのではないかと思っていたので。
 広崎直人。
 今度は声は出なかったが、唇でそれをなぞることは出来た。充分だった。
 これでこの名前は無駄ではない。直人の人生も、多分。

 自分はこの舞台から退場するが、問題は無いだろう。明日も日は昇る。きっと後何十億年かは大丈夫だ。
 ちっぽけな自我を押し通して終わりを迎えられる自分、この後に続くだろう何百億の死、また生まれるだろう何千億の(あれ?千億なんて単位はあっただろうか?)命。
 直人は静かに笑った。

 各々の不幸、各々の幸福。
 好きにやってくれ。


 好きに、幸せになってくれ。
 ──それを思えば直人は、笑いながら目を閉じられる。









機械化人間の戦争