「……なーんで、朝なんか来んだろー?」

 カナマ・A・戒史(Kanama・A・Kaishi)は、律儀に起床の時間を告げる電子音をBGMにそう言った。

 自分の問いに答えが返ってこないことを確認し、とにかく耳障りなその音を止めようと、右手を振り上げる。

「なーんでなんですかねー?ねー?眠たい時は寝るのが自然だよねー?」

 そして食べたいものを食べ、言いたいことを言い、殴りたい奴は殴る。それが一番幸せな筈だ。
 皆が真理に気付いている筈なのに、実行すると問題が発生するのは何故なのか。戒史は眼を閉じたままごそごそと枕元の空間を探る。

 ようやく求めていた感触が見つかり、短い爪の長い指が無造作にそれを押した。
 かちりと軽い音を立ててボタンが引っ込み、枕元の目覚まし時計が沈黙する。それと連動するように、部屋の隅から更にけたたましい騒音が上がった。

 戒史の眉根が寄せられる。

 そうだ、今日は土曜だ。だから、ベッドを出なければ止められない位置にもうひとつ目覚まし時計を置いた。

 そんなことを考え付いて天才気取りだった昨日の自分を殺したい気分で、戒史は身を縮めるようにして薄い毛布の中に潜った。右耳を枕にぴたりとつけ、左耳には指を突っ込む。

「……」

 幸いにして戒史は集中が得意である。即席の幕で音の波を僅かにでも遮断し、意識的に脳内から追い出す。

 それから十数秒で、戒史は再び眠りに落ちた。

 その部屋はしばらくそのままだった。戒史の部屋には、ベッド以外の家具がない。内装もしていないうちっぱなしの壁が寒々しい。壁に簡易洗面台と鏡がひとつ、そして床の上に放り投げられた衣服と乱雑に積み上げられた雑誌。狭い部屋には、すぐに捨てられるものしかない。

 最初に動いたのは扉だった。その後ろから白い顔が覗く。

 タキセ・C・月(Takishe・C・Yue)は入室すると、まず騒音の原因である目覚まし時計を拾い上げて止めた。

 耳を壊すような破壊的な音が止み、途端に空気すら軽くなった錯覚を覚える。

「起きろ」

 月はベッドの上の盛り上がった山に向かって時計を投げつけた。罪のないプラスチック製品が異様なスピードで毛布に突き刺さる。

 手首のスナップだけで軽く送られたように見えたそれは、存外に重い音を立てた。表記すれば、「ぐごり」とでも言うような。

 一瞬の静止の後、毛布は苦痛を堪えるようにぐねぐねと蠢き、力尽きたのかぱたりと動きを止めた。

 そして起き上がる様子はない。月は直線の動きでベッドに近寄ると、自然な流れで片足を持ち上げ、毛布の繭の上に靴の裏を載せた。
 無言で踏みつける。

「……」
「……」

 踏みつけ続ける。月の靴の底が、毛布の下の形を崩すほどにめり込んでいく。
 戒史は切れ切れに喘いだ。

「……月子ちゃーん……なーんか今朝は、ご機嫌麗しいー?」
「いや、そうでもない」

 短く。月はタイプライターで空中に刻印したように、綺麗だが温度のない発音で喋る。
 足から軽く力を抜いて、月は続けた。

「だがお前がその呼び名の使用を止めれば、少しは良くなるかも知れない」
「ヤーだよ。この呼び方けっこー気に入ってんだからー」

 瞬間、有り得ない程に増した重みに、戒史は呼吸すら止められそうになった。急いで身を起こそうと腹筋に力を込める。しかし、起き上がれなかった──逆だ。確実に沈んでいく。

「……」
「……」

 降って来るのは観察する視線。月は真剣に、人間がどれくらいの圧力で死ぬかの実験をするつもりだ。
 戒史は脂汗をかきながら半笑いを浮かべると、手のひらでマットを叩いた。ついでに、声が出ないので指文字で『I'm sorry』を何度もシグナルする。

「確認するぞ。今日は何の日だ」
「ど、土曜ー?」

 月は薄い色眼鏡越しに戒史を見下ろして、淡々と宣言した。

「土曜日にすべき事は何だ」
「か、買い物ー?」
「せっかく作った朝食が冷めたら」
「か、悲しいー?」

 戒史の答えに満足したのか、月は足を下ろした。
 大きく息を吐いて酸素を効率良くとり入れながら、戒史は起き上がった。床に脱ぎ捨ててあったシャツを掴み、皺も気にせず着込む。

「起こしてくれてー、ありがとねー」
「時計を改悪したな。何故か俺がヒラタに怒鳴られた。丁度『耳』を入れていたらしい」

 確かに、目覚まし時計の騒音は、薄い壁を突き抜けて両隣、さらには上と下の部屋には不快極まりなかっただろう。ただでさえ隣人とは上手くいっていないのに、事態は更に悪化したかも知れない。
 あまり気にすることでもないが。
 戒史は肩をすくめた。

「そりゃーバーッドタイミングー」

 戒史は体内無線を切っていたし、そもそもヒラタにはコードを教えていない。月も同じ筈なので、おそらくルームモニタで苦情を言われたのだろう。

「でもねー、俺的に頑張ったんだよー。今日こそ一人で起きてやるーと思ってさー」 
「お前の寝起きの悪さは異常だ。どうにかしたいと本気で思っているならむしろ、もう寝ない事を勧める」
「さらっと無茶言うねー」

 シャツと同じく、くしゃくしゃに丸まっていたブラックジーンズを引き上げ、ファスナーを閉める。そして何かに気付いたように戒史は顔を上げた。ジーンズのポケットを探り、確認する。事態は昨日と全く変わっていなかった。親切な妖精を当てにするのは間違っていたようだ。

「月ー。あのさー俺、『眼』を失くしちゃったみたいなんだけどー」
「……今、何か言ったか」

 立ち去りかけていた月が足を止め、振り返る。その精巧な人形のような顔を見詰め、戒史は出来るだけすまなそうな顔を作った。

「『眼』をー、失くしちゃったみたいでー」
「もう一度言ってみてくれ」
「ヤ、うーんと……『眼』を失くしちゃったー?みたいなー?」

 月の手が腰に回り、吊るされた大きな塊を取り上げる。黒光りするそれは、自動式拳銃(オートマティック)M11<フェヴラル・イ>だ。重さは三千二百グラム、鈍器として殴っても人を殺せる。サイズも、拳銃の範囲を少しばかり超えている。

 月は銃倉を確認しながら、機械的に言葉を繰り返した。表情も声音も全く変わらない。

「もう一度言ってみてくれ」
「あのー……『眼』をですねー、失くしちゃいましてー」
「もう一度言ってみてくれ」
「……『眼』のディスクを失くし」
「もう一度言ってみてくれ」
「──失くしてしまいましたごめんなさいー」

 月は片手で軽く<フェヴラル・イ>を構えると、手際よく安全装置を外した。勿論、照準は全くぶれずに戒史の額にある。
 アイケアグラスのフィルタ越しでも鋭い視線と真正面から向かい合い、戒史はゆっくりと両手を挙げた。

「お前の『視覚』ディスク:AR−79J型の値段はいくらだ」
「新品なら五百九十八万ドル」

 月は躊躇わずに引き金を引いた。
 轟音が響いた。





+++ +++ +++





 があん、と壁が揺れた。同時に向こう側で罵声が上がる。

「──貴ッ様らァ、ビバットビ殺されてェのか!?」

 同業の隣人、ヒラタ・A・新哉(Hirata.A.Shinya)の金切り声だ。すとん、と戒史が尻餅をつき、月も人差し指の往復運動を止める。
 六発目の銃弾の空薬莢がコンクリートの床に落ち、澄んだ音を立てて転がった。

「朝っパラからご親切にも俺の血圧上げコンテスト繰り返しやがってこの腐れダイコンチャーハン共が、寿命縮んだら貴様らの脳みそ纏めて洗濯機で回して漂白した所で俺の無念は晴れないんだけっどもドゥウユアンダスタン?!しかも弾が耳ィ掠ったぞコリャァ!!」

 容赦なく蹴られ、その度にたわむように見える壁。何度も壊しては直しを繰り返しているので、強度には難がある。
 新哉が月と同じ『C』ではないのが救いだが、『A』でも一般人に比べれば格段に力強い。たった今空けられた、星座のような銃創を繋いで、壁に僅かにひびが入った。

「止めろヒラタ。壊れる」

 月の呼びかけに、振動が止んだ。舌打ちが聞こえる。
 壁を壊せば戒史だけでなく新哉も困るのだ。のんびりと戒史が謝ってその場を纏める。

「来い。朝食が冷めてしまう」
「らじゃー」

 月は銃を腰に吊り直し、さっさと部屋を出て行った。戒史は壊れかけた壁を見て軽く溜息を付く。

 月の使用する弾は弾頭変形が少ないハードスチールジャケットが多い。貫通力に優れたそれを大口径の<フェヴラル・イ>で打ち出すのだから綺麗な穴が開く。

 まだ熱い空薬莢を足の裏でベッドの下に転がし、戒史は大また一歩で簡易洗面台の前に立つと、二つある癖にどちらも水しか出ない蛇口を捻った。簡単に顔を洗い、シャツの肩口で水気を拭き取る。
 申し訳程度に付いている鏡を覗き込み、瞬きを二、三度。だいぶ目が覚めてきた。

 視線を横にずらし、コンクリートにテープで貼り付けた安い紙を覗き込む。
 どこかの雑誌から無造作に引きちぎったそれには、今月分の運勢が日ごとに一行ずつ並んでいる。

「──健康運×、恋愛運□、金運△。全体的に不調だけど、もしかしたら人生を変える出会いがあるかも!?ラッキーカラーはゴールド」

 平坦な声で読み上げ、戒史はうっすらと微笑んだ。
 目を移すと、鏡の中の男は、寝癖のついたままの黒髪と、緩く弧を描く唇と、眠たげに半分瞼に隠れた右目、その下に蝶の形をした黒い刺青を持っていた。
 トータルすれば、何処の街角にもいそうなチャラついた男の笑顔──但し、右半分に限定して。

「四角、って何だろねー」

 残りの左半分は最早、顔とは言えなかった。
 焼け爛れた皮膚が張り付き、前髪もまばらにしか生えていない。そして、頬の上部から額にかけてはその皮膚すら存在していなかった。

 冷たい光を反射する無機物で覆われている──本来なら左目が納まるべきその位置にあるのは、液晶レンズだ。










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