幅3メートル、長さ500メートル程の『大通り』に、土曜日はざっと3000人ほどが集まる。

 破滅的な混雑具合のため、自然卵の売り買いは大分前に廃れ、今では袋詰めされた黄色い粉に成り果てている。
 人いきれに全員が喘ぎながら、それでも目的の方向に進もうとおし合いへし合いしていた。右側通行と決まっている筈なのだが、何の役にも立たない。衣服の火曜や、電気製品の木曜に比べ、土曜は怪我人の数も跳ね上がる。

 だが、それも戒史にはあまり関係ない。

 戒史は人にぶつからない。人の方が戒史を避けるからだ。海を割るモーゼのように、自動的に空く空間をただ進むだけ。

 戒史を見ると皆、一様に顔をこわばらせ、視線を合わせないようにする。喧騒は静まり、戒史が通り過ぎればまた復活する。
 それは、勿論戒史の醜い異形のためでもあるし、戒史の右目の下に入れられた刺青のためでもある。羽を広げた黒い蝶の上に刻まれるのは、アルファベットの『A』。

 張り出した看板に顔をぶつけないように身を屈め、電子情報上の単位と引き換えにいくばくかの食材を得て、胸の中に抱え込む。

 狭い街だ。だが、この狭さを味わえるのが、この世界では上流の証なのだ。

「……」

 戒史は小脇に紙袋を抱えなおすと、人混みの頭上を越えてふわりと跳んだ。助走は勿論必要ない。『C』でなくとも、強化筋肉は装備している。この程度のことは造作もない。
 そして戒史は、狙った場所に寸分違わず着地をした。

 小柄な中年女の頭の上に。
  
 それから戒史は、その頭とコンクリートの相性を良くするために、二、三度踏みにじった。ごぐり。ごつり。生理的嫌悪感を呼び覚ます音。

 事態を把握して引きつった悲鳴を上げたのは、戒史に踏まれた当人ではなかった。
 通行人が眼を剥いて後ずさり、空間が空く。

「おばちゃーん、スリは止めようねー」

 気絶した女には既に絶対に聞こえていないだろう。鼻腔から血を溢れさせ、僅かに痙攣している。

 戒史はその右手から砂糖の袋を取り上げると、斜め後ろに放り投げた。買い物袋から砂糖をすられた当人はそれでようやく事態に気付いたようだったが、動かずに立ち尽くしたままだったので、袋は別の通行人の膝に当たって落ちた。

「モノが少ないなら奪っていーって法律、誰も決めてないっしょー?」  

 笑いながら戒史は女の頭から足を退けた。死んではいないが、早めに手当てをした方が良い傷だろう。
 しかし戒史が介抱する義理はない。文句も出ない。

「奪いたいなら外に行きなよ、ねー? アッチは無法だ」

 これは罪に対する罰則であり、戒史にはその権限がある。国家防衛軍第9治安維持部隊。実際に戦場に出る人員は三桁も居ない国家防衛軍。

 『犬め』と毒吐く声が聞こえた。戒史には勿論、その出所くらいわかっていたが、特に行動は起こさなかった。そのまま歩き出し、買い物を続ける。

 通路の両脇に供えられた店舗は、ガラスの向こうに商品が掲示されている為、手も触れることが出来ない。自然、買って歩いている相手から盗る他なくなる。
 この混雑具合もあり、悪心が湧くものは後を絶たなかった。

「…………」

 外に行けば良い、というのは、ここの住人にとっては死刑宣告と同義だろう。

 けれど、定期的に外に出かける戒史は、その『無法地帯』の方が犯罪が少ないことを知っていた。
 あちらは何と言っても広い。食料も自給しているし、団結心もある。何より、人口自体がそれ程多くない。

 問題といえば、汚染された土と空気と水と食料に、大抵の者が30代半ばには病気を発症して死ぬ事だけだ。癌と白血病は風邪と同じくらいポピュラーで、死産の率も高い。

 各地のシェルターに収容できる人数には限界がある。
 だから、この狭い、狭すぎる、息も出来ないような街に皆群がるのだ。ただ生きていくことが出来る、それだけの為に。





 +++ +++ +++





 チョコレート菓子を買い忘れたことに丁度気付いた帰り道、体内無線に反応があった。
 左手首を耳に当て、先手を打って話し出す。

「月子ちゃーん? 心配しなくてもお菓子買ったからー、」
「今日は何の日だ?」
「……買い物の日ー?」
「違う」

 月は無線の向こうからいつもの冷静な声で戒史に突きつけて来た。

「長官補佐が会談の為に『砺波(Tonami)』の第二都市に移動する日だ」
「……俺それ聞ーてないんだけどー?」
「極秘事項だからな。1300時までに本部に来い」
「忘れてたって素直に言い、」

 戒史が最後まで台詞を言い終える前に、ぷつりと無線は切れた。
 溜息を吐きながら、戒史は片目を閉じ、脳裏に映し出される現在時刻を確認した。1256時34秒。

「後206秒で本部はちょーっと無理かなー」

 独りごちてから、戒史は方向転換した。

 国家防衛軍本部まで直線距離で約4700メートルある。手段を選ばず走っていけば到着出来なくもなかったが、戒史はゆったりと歩いた。

 狭い都市の中、交通手段は徒歩しかない。自動車はとっくの昔に廃れ、今では僅かに外の地域で使用されているのみだ。
 空中に吊り下げられたゴンドラは、遅い上に金がかかるので戒史の好みではない。

 ふと、小脇に抱えた紙袋を見る。
 こんなものを持ちながら本部には入れないだろう。そう思った途端に、戒史の腕はそれを道端に置いた。

 その後の一週間、食料に困る事など頭の片隅にも問題として出て来ない。
 
 他国である『砺波』の都市へと向かう手段は、外を経由して徒歩で行く以外にはひとつしかない。
 ヘリコプターである。滑走路がなくとも上昇出来る利点がある為、飛行機よりも好まれ進化を遂げた乗り物だ。

「こんにちはー」

 本部の入り口を通り抜け、エントランスのエレベーターに乗り込む。
 左手首を操作画面に押し付け、目的地を屋上に設定する。遅刻をしている今、長官補佐も、勿論月も既にヘリポートに居ると考えて間違いない。

 この会談は、戒史の所属する『若槻市(Wakathuki-shi)』と、隣接する『砺波市(Tonami-shi)』との緊張関係緩和の為のもので、具体的には砺波から若槻への食料援助に関する草案を審議することになる。

 戒史にはそんな事情はあまり関係がない。
 
 国家防衛軍長官補佐がこのような政治分野に関わる理由は、円滑に自国の軍事力をアピールする為だ。もう少し他の理由を付け足すなら、補佐官であるタケダ・N・誠(Takeda.N.Makoto)には駆け引きの才能がある。

「…………」

 エレベーターの扉が開き、戒史は一歩踏み出した。





 +++ +++ +++





 若槻と砺波は隣接している。

 その為、ヘリコプターを使えば移動は短時間で済む。ほんの二十分ほどの空中散歩。
 戒史は地上を見下ろしながら、暇潰しに月を咎めた。

「月子ちゃーん、会話中にいきなり無線切るのは良くないよー?」

 月は狭い座席に長い足を折り畳んでしまいながら、その糾弾を叩き落した。

「切るぞと言った」
「いつー?」
「通話を終了してすぐだ」
「そっかー」

 月に相手をして貰えないので、戒史はだらりとシートに背骨を預けたまま、今度は誠に話を振った。

「この所、平和ですよねー。僕ら、要らないんじゃーないですかねー?」
「そう言うな」

 ダークブロンドをきちりと調え、薄い眼鏡をかけた、いかにもインテリという容貌を僅かに歪めながら、誠はそう答えた。

「この食料支援案も、三ヶ月前の戦争で砺波に圧力をかけたからこそ実現に漕ぎ着ける事が出来た」
「最近負けっぱですもんねー、砺波はー。改宗する奴とかいないんですかー?」
「居たとしても、極秘に処分するだろうな。あちらにしてみれば、国教に威信がなくなるのは死活問題だ」
「気持ち悪いなー」

 ぶつぶつと呟きながら、戒史は頭の後ろで腕を組んだ。
 そこでふと気付き、ジーンズのポケットから『耳』のディスクを取り出して左手首に差し込む。

 その様に気付いて、月が口を開いた。

「……今まで、『耳』を入れていなかったのか?」
「えー? うーん……まーそーゆー解釈も出来なくはないかなー……」

 戒史は口の中でもごもごと頷きながら、建前上意識を集中してみた。
 途端に異常を察知して、溜息を零す。

「ごめーん月子ちゃーん」

 その瞬間にはもう、月は<フェヴラル・イ>を抜いていた。

「四時の方向に距離約500でー、角度マイナス49くらいー、対空ロケット弾かなー、今発射され、」

 がしゃあん!

 月は裏拳で窓の強化ガラスを突き破ると、上半身を乗り出して銃を構えた。

 『A』程ではないにしろ、『C』も視覚強化されている。コンマゼロ三秒で照準を微調整し、引き金を引く。保険のために、もう一度、一度、一度引く。

 銃声はヘリコプターの稼動音に掻き消されたが、四発の銃弾は砲弾を撃墜する筈だった。
 距離の離れたところで爆発させれば、こちらに多大な影響はない。

 割れた窓から吹き込む突風に眼を眇めていた戒史は、溜息を吐いた。

「……駄目かもー」

 月の放った銃弾が衝突する寸前、砲弾は自動的に四散した。
 ──ように見えた。現れたのは、巨大な投網だった。

 網の目から銃弾はすり抜けていく。

 がぎちゅっ

「!!」

 カーボンファイバー製の強靭な特殊網が、ヘリコプターを包むように纏わりつく。
 ヘリコプターの羽が網を巻き込み、嫌な音を立てる。

「頭使ったねー。ただの弾じゃー月子ちゃんに撃ち落されちゃうーって学んだんだー」
「問題ない」
「月子ちゃーん、かーっこいー」

 羽は既に動作を停止し、機体は既に斜めに傾いて墜落している。

 月は誠のシートベルトを千切ると、その体を肩に担ぎ、今では床になっている扉を蹴り抜いた。
 呼吸も出来ないような突風の中、月は開いた空間に飛び込み落下していく。

 戒史はその後から下を覗き込み、見る見る近づく地面に顔を引き攣らせた。

「わーあ、問題ないのねー……」

 パラシュートは備え付けてあるだろうが、装着している暇はない。
 戒史も月に続いて、単なる落下する棺と化した機体から飛び出した。運転士のことは、頭の片隅にもない。

 びゅうびゅうと風を切って足先から自由落下しながら、戒史は唇を曲げて呟いた。

「コレでまた、戦争だねー」










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