『耳』を外していて正解だ。通常でも少しばかりダメージが来る声量。 戒史は女の前にしゃがみ込むと、揶揄の声音で言った。 「おじょーさん、興奮した雄鶏みたいだねー?」 「!!」 戒史は避けなかった。 ばちん! 金髪女の平手は見事に戒史の左頬にあたり、まさか、避けないとは思っていなかったのだろう、彼女は少しきょとんとして戒史を見た。 男には、女の平手を回避できる能力は充分あるが、そうしてはいけないという法律があるのを知らないらしい。 「……月」 「なんだ」 戒史は厭味なくらいににっこり笑って立ち上がると、扉を開けた。 「五分後」 「わかった」 月は女の方に振り返り、何か言ってやっている。 「立て」 「?」 「帰りたければ立て。そうでないなら、死ぬ事になる」 それから、もう一言、二言言って、戒史の後に続いて部屋を出てくる。 戒史はそのころにはもう階段を上っていた。 +++ +++ +++ 窓から吹き込む霧雨が少しずつ全身を湿らせていく。 状況が良くないことは確かだった。こちらは二人、なおかつおまけが一人。もっとも、それについては彼女には全く責任はないのだが。 月は白髪を揺らして、戒史の方に振り返った。 「何人だ」 「――六人くらいかなー?雨の音がー、邪魔ー」 戒史達は地下一階から二階へ移動していた。逃げるつもりはない。こちらにやってきたところを返り討ちにする、というのが彼らのいつものパターン。 月は窓際に腰掛け、霧雨を眺めていた。先程戒史がしていた行動と似ているが、決定的に違うのは、月が目的を持ってそれをしている、ということだった。 雨を観察しているのではなく、外を観察しているのだ。周りの『戦場』の構造確認である。死を回避するために必要なこと。 戒史は全く、そういう準備はしなかった。 月はそれについて、いつも何も言わない。理由は大体想像がついている。 だから月は違うことを尋ねた。 「何故だ?」 「なーにがー?」 「巻き込む事はなかった」 主語を抜いた会話。 「だーってさー」 戒史は一度言葉を切るとくるりと振り向いた。無機質な左半面が露になる。 相変わらず月は窓の外を見ていて、視線は合わなかったけれど。 「ムカついたから」 「そうか」 月はそれについても何も言わなかった。戒史は少し残念そうに肩をすくめた。 +++ +++ +++ その頃和草は三階にいた。 階段の踊り場の壁により掛かって思考をまとめながら、荒い息を吐き出す。 それにしてもあの白髪はとんでもないことを言い出してくれた。戦闘が始まれば、敵も和草など気にする余裕はないだろうから、その時に逃げ出せ、などと。 巻き込まれたり、見つかったりする可能性もある。そうなったら最後、自分の末路は簡単に想像がつく。 ゴミ捨て場に転がっている、白目をむいた女。清掃夫の毒づく声、彼女の死体の存在する意味はそれしか残らない。 緊張しすぎて心臓発作を起こしそうだ。 だから、和草は怒りに身を任せることにした。 余計なことは何も考えず、心の中で若槻の犬に思い付く限りの罵詈雑言を浴びせかける。 それから、すぐさまこれからの行動を再確認した。 もし二階が騒がしくなったら。それは彼等が敵と戦っているという事だろう。非常階段から、逃げる。 もし三階の方から先に来たら。二人もすぐに来るはずの距離だ、一度引き返す。 もし挟み打ちで来たら。これが一番確率が高いだろうが、窓から飛び降りる。そこまで和草を追ってくる理由はない筈だ。 死にはしないだろうが、足の一本や二本は折れるかも知れない。そうしたら手で這いずって逃げるしかないのだけれど。 「う……」 和草は泣きたくなった。 もう嫌だと言っているのに。こんな世界は知らないと言っているのに。 『泣いても喚いてもどうにもならない』そんな事はいやという程わかっているのだ。だけど、どうしてもそうしたくなるのだから、それこそどうにもならない事ではないのか? 馬鹿みたいだ。 +++ +++ +++ 「上から二人ー、下から二人ー、後は横から二人ー」 「時間差攻撃か」 「多分ねー」 月は窓から離れ、<フェヴラル・イ>を抜き出した。戒史の<キダム>とは違い、威力重視の大型セミオート拳銃。 戒史は目を閉じて耳を澄ませ、階段を叩く足音を察知する。 この部屋は階段から十メートル程度しか離れていない。相手もこちらに気付かれていることは解っているのだろう。扉が開いたら戦争開始だ。 爆発物の使用は禁止されている。 「上から二人……だよ?」 戒史は面白そうに笑った。 どんっどんどんっ 勿論ノックの音ではない。部屋に一つしかないドアに、穴が開いていく。 戒史は元から死角に避難していたし、月はすぐにコンクリートの壁に背を付けていた。ドアはそのすぐ隣。 『ディスク:A』装着者が居れば、そんな事は手に取るようにわかるだろう。が、当たり前だが銃弾はコンクリートを通過できるわけではない。 つまり月や戒史に一撃喰らわせたければ、彼らは扉を開けなくてはならないのだが、開ければすぐそこに月が居る。 当然、一瞬迷うだろう。 月は無造作に手だけ伸ばして扉を開けた。 次の瞬間、しゃがみながら地面に倒れ込み、同時に目標も確認しないまま扉の向こうに三発、弾を撃ち込む。 きゅんきゅんきゅんっ! が、そこには何もなかった。 月の目に映ったのは、部屋の外側に開いた扉。その上に乗った男が構えている銃口。 真っ直ぐ月の頭を狙っている。 ばしん!! 月は少しも躊躇わず、無理な体勢から銃を持った左の手――その手首の部分で扉のちょうつがいを叩いた。 勿論こんな事が出来るのもディスクの効果である。金属で出来たそのちょうつがいは軽くひしゃげ、扉が僅かに傾く。 がうんっ 月の左の首筋、逆さまの十字架の上に紅い筋が走る。 けれど、男が体勢を崩さなければ、月の頭蓋骨から脳漿が飛び散っていただろう。 がうんっ! 二発目の銃弾が月の額を割る前に、月は壁を蹴った。右肩が嫌な音を立てて擦れ、一瞬前まで月がいた床の上に、小さな穴が開く。 斜め後ろに滑り、男の銃の死角に入る。月は一回転してその勢いで立ち上がった。 間髪入れずに横に飛ぶ。 がんがんがんっ! 一瞬前まで月がいた空間を、銃弾が通り抜ける。それを目で追うことすらせずに、月は撃った。 きゅんっ!! だがそれは読まれていたようで、男は素晴らしい反射速度でそれを避けた。『ディスク:C』を装備していることは、あの一瞬で扉の上に飛び乗ったことでも、男の右頬にいれてある文字からも明らかだ。 だが。 どんっ! 月の銃声が消えないうちに別方向から放たれた、二発目の銃弾が空中の男の首に食い込む。 フルメタルジャケットの銃弾が脊髄を貫通し、粘液の尾を引いて抜ける。一瞬後、噴水のように血が吹き出た。 有り得ない連携。 まるで、男の回避の軌跡がわかっていたような。 「!!」 何故、と思う間もなかっただろう、その男の身体が地面につく前に、月は廊下へと飛び出していた。 「っ!」 ぐぎっ 棒立ちになっていたもう一人の延髄にかかとを叩き込む作業は、一秒もかからずに終わった。 月は血の垂れた頬を拭う。 部屋に銃弾が叩き込まれてから、二十秒と経過していない。 「…………」 月は溜息を吐いた。いくら人工筋肉で強化されていると言っても、生身の部分の骨や皮の強度が変わるわけではない。ちょうつがいに叩きつけた左手首は妙な方向に曲がっている。 勿論、首が妙な方向に曲がってしまった足下の男は、そんな事はどうでも良いのだろうが。 「かーっこいー」 「……」 場違いに暢気な感想に、月は振り向いて真意を問った。 戒史は楽しそうに笑っていた。銃を下ろして、月に祝福を投げる。 「良かったねー、月子ちゃん」 「何がだ」 「そーいう事してても、かっこいーと大抵のことは許されるモンなんだよー?」 月は肩を竦めるなどという無駄な動作はしなかった。 「……初耳だ」 「これで月子ちゃんが格好悪かったらー、ただのチンケな性格破綻者になっちゃうんだからねー」 「問題ない」 「そーゆー余裕も、かーっこいーよねー。物語だったら、主役になれるよー?」 揶揄には取り合わず、月は違うことを言った。 「便利な物だな。お前の、その能力は」 「コレー?」 戒史は左手首の差込口を見下ろすと、右目の下の黒い蝶を少し歪ませた。 「それくらいは役に立って貰わなきゃー」 割に合わないだろうよ。音のない声が聞こえる。 月は二、三度手首を降って乱暴になじませると、銃に弾を込め直した。 「ちょーっと質問タイムー」 「何だ」 「何であんだけ動いてー、月子ちゃんのアイケアグラス外れないのさー」 「さあな」 「うーん。月子ちゃん七不思議の一つだねー」 がしゃあああん!! 窓が砕け散り、ガラスの破片が降り注ぐ。 本来なら、時間差で挟み打ちにするつもりだったのだろう、と。 「舐められてるねー」 また、黒い蝶が歪んだ。 赤い舌が、ぺろりと唇を潤す。 +++ +++ +++ 己の呼吸音がやけに大きく聞こえて、和草は息を飲み込んだ。 どくどくと鳴っている心臓も煩かった。その音が聞こえなくなることも怖かったけれども。 壁に背を付け、がたがたと震える和草の耳にも、先程の銃声が聞こえていた。 だがそんな事よりも重要なのは、動いてくれない足と、焦点が合わない程近くにある銃口と、それを構える女の冷たい目だった。 「あ……あ…あ……」 唇は意味のある言葉を吐き出してはくれず、けれど上の方からそんな自分を冷静に見つめる自分も居て。 何故この女、砺波の『W/P』は、すぐに引き金を引かないのだろう、などと考える。 和草の瞳には涙が溜まり、その短い黒髪の女の姿もよく見えなかった。 どうやら自分は、『W/P』というものを少し軽く見ていたのかも知れない。 「あなた――」 「あ……」 「民間人よね」 「……ああ」 自分でも馬鹿みたいだとは思ったが、その音しか口から出ては来なかった。 「なら逃げなさい」 「え」 女は、さっと銃を降ろすと、和草にきつい口調で言った。 「とっとと行きなさい」 和草が答えられずにぼんやりしていると、ガラスの割れる音、そして銃声が下から響いてきた。女が派手に舌打ちする。 「早く逃げなさい」 その声は、何故だか和草を心配しているようにも聞こえる。 彼女はそのまま階段を飛び降りていき、もう一人いた男も、さっと後に続いた。 和草は腰が抜けて、その場にずるずると座り込んだ。 「…………」 しばらくの間そうしていた。数分は経過しただろう。 その後、ようやく和草の脳は回転し始めた。 「…………」 つまり、先程の女は――自分を見逃してくれた? そして――二階の二人と戦いに行った? 和草は抜けた腰を叱咤しながら、よろよろと立ち上がった。 もうとっくに、物音は止んでいる。つまり、どちらが勝ったかは別にして、決着が付いているのだろう。 理性は早く逃げ出すべきだと忠告していた。ただ、気にかかることがあった。 あの女の人は? 勝ったのか。負けたのか。 和草の脳裏に先程の女の冷たい――しかしどこか寂しい目が浮かび、しかもそれが理性の呼びかけを無視しようとしている。 この、非日常空間において、彼女だけがまともな『人間』だった気がしたから。 和草は意を決して足を踏み出した。 +++ +++ +++ 「やあーっと終わったねー。六人は流石に、ちょーっと面倒」 といっても、交戦開始から終了まで五分と経ってはいない。 目に入るのは、血塗れになった廊下に血塗れになった死骸。 赤い視界。 戒史は自分の目元に飛んだ血を指でなぞった。その指も赤く濡れていて、赤い線が顔を走る。 黒髪、黒目、黒い服、黒い蝶、そして赤い、線。 それから、地面に横たわっている骸に視線を移す。 男、男、女──だったもの。 部屋の中には後三つある筈だった。男、男、男。 背後の気配には戒史は既に気付いている。勿論、月も。 「あ……あぅ……」 赤と黒と、そして金。 「なんで……ど…して……」 呆然と繰り返す、血に染まった、少女めいた風貌の、女。 その姿は酷く場違いなようでいて、不思議とその場に馴染んでいる気がした。 彼女は、女の死体を見ているようだった。意味のない声を上げながら。 「なんで……」 しばらくそれを見つめてから、彼女は戒史へガラス玉のような青い瞳を向けた。 感情の篭らないそれは、とても綺麗だ。 「なんで……?」 数瞬の間。 「――何で、て何に対してのことー?」 戒史はにこやかに彼女に語りかけた。 「な……んで……?」 彼女は虚ろにその問いを繰り返すだけだ。 「なんで……なの?」 「だから何がー?」 「なん……で、どうして」 うわごとのようにぶつぶつと繰り返す。 月は無表情にそれを見ていたが、やがて視線を逸らした。 「だーから――」 何が、と重ねて戒史が問う前に、彼女はこう言った。 「わから……ないの」 戒史は途端にうんざりした表情になり、 「人殺しをする神経なんてわかんないーって?」 「ちがう……」 何が違うのだ?戒史は彼女を見下ろした。 「なんで……『なんで』って言うのかが……解らないの……」 その衝動が、解らないのだと。 彼女は何を訊きたいのか、何を言いたいのか、ただ、目的のはっきりしない『疑問』。この光景を見て。 「死んでいる人がいて……殺した人がいて……私、見ている……だけ?」 もう動かない瞳と、もう動かない身体が、何か問いかけるのか。 彼女はよろよろと死体に近付き、女の目に触れると、それを閉じた。 「……ふーん」 戒史は興味のない様子で相槌を打つと、虚脱に浸る女に問った。 「おじょーさん、お名前はー?」 「……和草(Nagusa)」 放心状態のまま素直に答える彼女。 戒史は頷いた。 「俺は戒史。こっちは月ねー」 最小限の自己紹介をし、戒史は和草に銃を突きつけた。 「…………」 青いガラス玉がぼんやりと銃口を見上げる。 「おじょーさん。あんたに選択肢をあげるー」 「選択、肢……?」 「そー。素人さんには、選択肢」 戒史は、機械ではない顔の右半分だけを歪ませて笑っている。 「俺と月と一緒に来るか――ここで死ぬかだ」 突然に脈絡もない選択を迫られた和草は、それを質問で返した。 「なんで……?」 当然の疑問に、戒史は解りにくい答えを出す。 「俺はねー」 戒史は和草に笑いかける。冷めた瞳で。 ちっとも笑っていない、瞳で。 「嫌いな奴に軽蔑されるのは好きなんだよ。だからさ」 |
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