男は口の端をつり上げた。

 獲物を逃がさないようにするにはまず、警戒をさせないことだ。不審な動作をするから怪しまれる。
 それから余計な臭いもさせないことだ。血や、硝煙の臭いなどもってのほか。

 そして、平静でいること。

 心拍数を平常に、汗をかかない、不自然な呼吸をしない。 
 必要なものは、演技力だ。
 何も考えずに歩くこと。物音を立てない、のではなく立てても気にされない様な足どりで歩くこと。『外』に住む浮浪者を完璧に装って──つまりは。

 つまりは、『普通』であること。それ以上の武器などない。

 猫科の動物の危険な笑みを浮かべ、男は目標に近寄った。





+++ +++ +++





 全く味を感じない固形食糧を水で無理矢理胃に流し込み、和草は吐き気をこらえた。

 相変わらず、月は旧式の煙草を咥えて銃の手入れをしている。戒史は、滅多矢鱈と文字の多い雑誌をめくっていた。かすかな物音だけが響く、温度のない部屋。シャワールームではさび臭い水しか出ない。
 人通りの少ない、裏路地に面した元安宿の窓から見える物といえば、向かいの建物の灰色の壁だけだった。角度を変えれば、空くらいは見えるだろうが、それも灰色なのは間違いないような気がする。

 誰も、そんなことに気付きたくはないのだけれど。

 ぼんやりと、宙を見つめたまま、自分のものではない服を着て、和草はベッドの上で膝を抱えていた。淀んだ空気が息苦しかった。

「────」

 突然、戒史が乱雑に雑誌を閉じた。連動したように月が顔を上げる。

 らしくなく、戒史の表情には真剣な何かが浮かんでいた。それを見た月が、そっと音を立てずに立ち上がる。包帯で固定された左手首、その先には今まで手入れしていた銃が握られていた。

「おじょーさん……ちょーっと向こうに行っててー?」

 真顔の戒史に押されて、和草はそろそろとベッドから下りた。
 緊張した空気に、また、『戦場』が近づいていることを察する。

「はやく!」

 音を出さずに息だけで、戒史は和草を急かした。
 びくっと身を竦ませ、シャワールームの扉へ駆け寄る。ノブを回してその向こうに滑り込もうと――

「ちぃっ!!」

 戒史が床を蹴った。

 がっががががががっがっががが

 和草の鼓膜がびりびり震えて、目の前が真っ暗になる。思考が引き延ばされる。全てがスローに感じられるようになって――

「くっ……」

 誰かの苦痛の声がして、ふわりと血の臭いがして――

 きゅんっ!!

 真っ黒な視界の外で月の銃の音が聞こえて――何故か体の自由が利かなくて――それだけを認識した時には、既に和草の身体は宙に浮いていて――

 ばんっ

 シャワールームの扉が壁に当たってバウンドする音がして――その後すぐ衝撃が来て――けれどそれはそんなに強い物ではなくて、多分背中を床に打ったのではないかな、と思って――そして、まだ視界は黒いままで、身体の上に何か重い物が乗っていたような気がして――けれどそれも一瞬で、その後すぐに黒かった視界が開け、そして。

 そこで間延びした時間は終わった。

 きゅきゅっ!!

 目に映ったのはシャワールームの天井で、和草は予想通り床に倒れていた。何故なのか、は未だ思考が追いついていないのでわからない。何しろ、これまでのことは全て一瞬で――

 黒い物が和草の身体を抱き上げて、恐ろしく素早く二、三歩移動した。
 そしてその、シャワールームにあるにしては大きい窓から和草を突き落とした。

「――――――――」

 建物と建物の間の壁に擦られながら落ちていく和草の耳に、もう一度先程の轟音が響いた。自分の身体が風を切る音にも負けずに。

 おそらくこの間、僅か二、三秒だったように思う。

 和草は路地のゴミ山の上に墜落した。まだ頭は事態に置いて行かれていた。
自分の物ではない血が真新しい服に付いているのを確認した時には、三度目の轟音がした。頭上で。

 それから和草は、気を失った。





 +++ +++ +++





 失敗した。敵の接近に気付くのが遅すぎた。

 戒史は和草を突き落とした後、間髪入れずそのまま仰向けに倒れ込んだ。
 直後、顔の上を轟音が通り過ぎる。
 後ろを振り向いていれば、戒史は派手な血のシャワーを振りまいていただろう。いくらここがシャワールームでも、それは笑えない。

 轟音は窓から外に飛び出して、向かい側のビルの壁が蜂の巣になった。

 シャワールームは狭く、転がるスペースもない。戒史は一瞬も迷わず倒れた勢いで床に左手を突き――

 がんっ!

 狙いはつけられなかったが、右手で持った銃で敵がいるであろう背後の空間に発砲した。停止せずに、ブリッジの体勢からそのまま後転する。

 ががががっ

 三度目の轟音が響き、床に点々と穴が開いたのが見えた。後ろ向きにしゃがんでいるこの体勢はどう見ても不利。しかし一秒も時間を稼げばもう充分だ。

 きゅきゅ、きゅぅっ!!

 月の銃の音を聞きながら、戒史は振り向きざまに立ち上がる。勿論、立ったときには既に銃を構えていた。
 襲撃者(眼鏡をかけた黒髪の男)は月の銃弾をかわすためにしゃがみ込んでいた。戒史は逆に、銃弾の通り過ぎた後の空間を通って立ち上がったのだ。

 がんっ

「!?」

 間を空けずに放った銃弾を、男は機関銃を放り出し、戒史の方に飛び込む事でかわした。普通の人間には絶対に到達できないレベルの反射速度。その男の首筋に浮かんでいるのは青い羽の天使、『C』、そして――

 『A』の文字。

 驚きに、戒史は息を呑んだ。

 がちぃっ

 懐に飛び込んできた男が、その手に持ったナイフで戒史の銃を叩き落とす。危うく視認が不可能になりそうな程のスピードで、刃が戒史の首筋に向かってきた。

「くっ」

 がっ!

 それを左腕でガードする。そこにコンバットナイフを仕込んでいなければ、そのまま手首がすっぱり切断されていた事だろう。
 衝撃までは吸収できず、戒史は右肩から壁に叩きつけられた。

 接近戦では『C』に比べて『A』は圧倒的に不利である。下手をすれば一瞬で殺される。

「かはっ」

 背中を強く打ち付けて、肺から勝手に空気が絞り出された。

 ひゅっ

 戒史の身体を追うように、横薙ぎにナイフが風を切った。
 風圧で戒史の前髪が舞う。

 どがっ

 戒史が俯いたのと、先程まで彼の頭があった空間を通ってナイフが壁に突き立ったのが、ほとんど同時だった。
 黒髪が二、三本、今度は本当に宙を舞い、そのまま戒史は崩れ落ちる。が、その前に右手で壁を突き飛ばすと、襲撃者に向かって体当たりした。

 男はナイフから惜しげもなく手を離し、そのまま後ろに飛んでかわした。しかしその時には―――

 どっ

 隣の部屋から素晴らしい速度で追いついてきた月の足が、襲撃者の右肩を捕らえている。
 戒史はそのまま二人の横をすり抜け、シャワールームを出た。『C』同士の近接戦に巻き込まれない為だ。

 倒れるかと思った襲撃者はその衝撃に耐えた。月と至近距離で向かいあい彼の右肘を肩で受ける。

「ふ……」

 入ったと思った攻撃は男が一歩後ろに下がることで無効化され、月はつんのめった。が、その勢いを殺さず、すぐさま右の裏拳に攻撃を切り替える。

 ばしっ

 顔面に叩き込むはずだった手の甲は、相手の右手の平で邪魔された。カウンターで襲撃者の左膝が月の腹に食い込む。

 どっ
 ごっ

 同時に月は相手の左太股に右肘を叩き込んだ。が、腹に喰らった衝撃を殺しきれずに、体がシャワールームの外に吹き飛ぶ。
 月の後を追って襲撃者もシャワールームを出て来た。

 ひゅっ

「っ?!」

 まるでそのタイミングで相手が飛び出てくるのがわかっていたかのように、避けようのない距離から鋭いナイフが襲撃者を襲う。

 かっ
 かっ

「ち……」

 驚異的な反射速度で、襲撃者はナイフを二つまで叩き落とした。が、三つ目のナイフがその左肩に深々と突き刺さる。

「やっぱりなかなか……やりますねえ」

 そう言った襲撃者は、普通に立っているならその辺りのビジネスマンにしか見えない、スーツを着た眼鏡の優男だった。
 まるで馬鹿にするかのような態度で賞賛を送ると、涼しげな顔で肩からナイフを引き抜く。床に点々と血が落ちる。

 月は部屋の真ん中に、戒史は窓際に立っていた。

「自己紹介くらい、してくんないー……?そりゃ顔は、データで、見たかもだけどさー」

 戒史の脇腹からは、鮮血が滴っている。最初の奇襲、その時に銃弾が掠ったのだ。
 それでも戒史は余裕の笑みを浮かべた。

「初対面、でしょー?」
「そうですね、そんなに長い付き合いになるとは思えませんが、一応礼儀と言うことで」

 襲撃者は慇懃な動作で一礼した。

「里村健吾(Satomura Kengo)です、よろしく。『戦争』には初参加なので──先輩方、どうぞお手柔らかに」










執着