目覚めたとき、辺りは奇妙に静かだった。

 和草はゴミの山から下りると、不自然に冷静に辺りを見回した。裸足で立つ路上は刺すように冷たい。
 そして和草は歩きだした。何故か、表通りの方向ではなく、開けっ放しの窓のある部屋に向かって。

 何故、そんな事をするのか、自分でも良くわからなかった。
 逃げてしまえば良い、これ以上ない程の機会の筈だ。けれど和草は、あの冷たい部屋を目指した。

 確かめなくてはならない。そうしなくてはならない。だから、それまでは――

 ぎ、と錆びた音を立てる壊れかけの正面玄関の扉。無人カウンターと、壁の穴。弾痕に違いない。

「…………」

 何となく息を止めて、和草は階段を一歩ずつ上がった。
 呼吸をしていない為なのか胸が苦しい。血の臭いがする、けれどそれは当たり前だ、自分の服の上にもまだ乾ききらない真新しい血の染みが、こんなに存在するのだから。
 これは──あの男の血だ。

 案外簡単に階段は終わってしまった。申し訳程度に敷いてある、くすんだ臙脂色のカーペットのざらついた感触。それがいやに気になる。

「…………」 

 和草は、階段とは逆にやけに長く感じる廊下を、心持ち足を引きずりながら歩いた。足首を捻ったのかも知れなかったが、それはあまり大したことに感じられなかった。

 自分が何を確認したいのかは、もう既にわかっていた。

 扉の前に立つ。
 何故か開ける事を躊躇って、和草はしばらくそこに突っ立っていた。空気を軽く吸い込み、手を持ち上げて、扉に触れる。

 キィ

 軋む扉はそっと押しただけで内側に開いた。そこには──

 予想していたものは、何もなかった。

 割れた窓ガラスと、壁や床に付いた銃弾の跡。それだけだった。
 何故か和草は大きく息を吐き――それからそれに気付いて、首を振った。これではまるで、安心しているかのようだ。

 シャワールームの扉は開きっぱなしだった。あの時は確かに、一度閉まったと思ったのに。そっと覗き込む。

 目に留まったものは四つ。
 一つは、血の跡。
 一つは、弾痕。一つは、あれは機関銃、と言うのだろうか、拙い知識で予想してみる。
 最後は――和草は少し血に濡れたそれを拾い上げてみた。

 千切れた細い銀の鎖と、それにかろうじて引っかかっている、銀の指輪。手入れをしていないのか、輝きは失せている。

 蝶をデザインしたリングだった。和草はそれをまじまじと見つめて、驚愕した。
 何の変哲もないただの装飾品だ。 けれど、和草はその指輪から目が離せなかった。

 特別な形ではない。輪に張り付いて、蝶が翅を広げているだけで、他には何の飾りもない。サイズとデザインからして、女性用だという事はわかった。
 いや、子細に点検すると裏側に字が彫ってある。

 『from K to Saki』

 それをしばらく見つめていたが、和草は恐る恐る、そのリングを自分の左手の――

「返してねー……」

 びくっ、と肩を揺らして和草は振り返った。

 そして当然のようにそこに立っている男の、やけに鋭く自分を見つめてくる視線にまた身を震わせた。
 戒史はシャワールームの扉に寄りかかり、手を差し出してきた。

「それ」
「…………」

 和草は大人しく指輪を戒史に渡した。
 それきり戒史は和草を見もせずに、銃を拾うと身を翻しシャワールームから出ていく。

「…………」

 和草は細く息を吐いて、もう一度左手に視線をやった。
 握りこんでいた手を、開いてみる。

 その手の平には──先程の指輪と全く同じ、蝶の形の火傷が浮かんでいた。
 何故だ?これは、何だ?

 あの指輪を見た瞬間、何かが和草の心を動かした。思い出せない夢と、何かにつまづいている感情。あの指輪は──

 そこまで考えて、和草はやっと顔を上げた。そして、戒史が立っていた場所に出来ている真新しい血溜まりに気付いた。

「!」

 急いでシャワールームを出ると、壁により掛かって俯いていた戒史が和草を呼んだ。

「急いで、此処を出るからー……ついてきてー」
「ちょっと待って、そんなことより、あなたもしかして怪我を、」
「いーから、時間がないんだよー……」
「いいからって、血が……」

 戒史はうんざりしたように首を振って、

「今、月が一人で時間を稼いでくれてる。だからー、帰って来れたの。ホントならー、こんな事してる暇ないんだよねー」
「でも」
「もーいい、ここから出るからー」

 痺れを切らした戒史はひょいと和草を担ぎ上げると、荷物のように肩にのせた。
 部屋の隅に置いてあった大きなバッグを左手で持ち、

「落ちないでねー」

 そして、戒史は部屋の窓を開けると、和草がゴミの上に落ちた路地とは違う方向へ延びる道へ、何の躊躇せずに飛び降りた。

「き――」

 落下の際の浮遊感。先程とは違い今度は素直に感じた。

 だんっ

 和草の口から思わず外に出た悲鳴が終わらないうちに、戒史は路上に降り立った。
 だが、

「くっ」

 苦痛の声と共に、戒史の膝が折れた。
 和草の身体が、がくん、数十センチ落下する。人を一人担いだまま、コンクリートに着地する衝撃を吸収するなど、所詮無理な話だ、和草はそう思った。

「降ろして――」

 和草の声をさっぱりと無視し、戒史は体勢を立て直した。
 ぽたりと地面に血の滴が落ちる。

「ちょっと」
「……黙って」

 戒史は荒い呼吸を強引に押さえ込むと、薄暗い路地を大通りとは反対方向へ走った。
 後ろ向きに担がれている和草には、通りに点々と落ちていく血がいやでも目について、落ち着かない気持ちになる。

 出血は止まるどころか、だんだん多くなっている気がする。
 和草を担いでいるというのに戒史の足は驚くほど速い。落ちる血以外は、まるで何処にも支障がないように見えた。
 そのまま五分程度走ったか。
 辺りには既にまともな建物もなく、道は肩を擦るくらいに狭くなってきていた。読めない落書き、饐えた腐敗臭。
 昼だというのに、あたりには薄暗い雰囲気が漂っている。

 いきなり戒史が立ち止まった。

 方向転換し、崩れかけたアパートと事務所の間の細い隙間に潜り込む。
 そしてその場に無造作に、どさりと和草を落とした。

「まずいことになった、ねー……」

 そのままずるずると座り込む戒史。
 その顔は真っ青で、血の気がまるでなかった。

「うー。レバー食べないとなー……アレ嫌いなんだよねー」

 軽口を叩く戒史の顔にはびっしりと脂汗が浮かんでいる。呼吸も不規則。

「あ……怪我……手当、しないと」

 和草は恐る恐る、呼びかけてみる。
 戒史の脇腹から流れている血は、彼の黒いジーンズの片側をほとんど全て濡らしていた。酷い血の臭い。かなり深い傷ではないのか?

「病院に」
「病院なんて、何処にあるのー?」

 戒史は右半分だけの顔でせせら笑った。

「『外』にも病院くらいあるわよ、私の家の近くにだって」
「無機物の修理までしてくれるワケー?」
「それは、」

 和草は言葉を?み込んだ。
 外の人間はシェルター民に対して良い感情を持っていない。ましてや、定期的に己の住処で戦争をする『W/P』など、悪魔扱いだ。

「ちょっと、向こー向いてて……」

 戒史は和草にそう言った。和草は反抗する。

「見せて」
「おじょーさん、アナタが見て傷が治るワケじゃーないでしょー?」
「血を止めないといけないでしょう」
「自分でやるからさー、向こう行っててー……」
「いいから、見せて!」

 和草は小声で怒鳴った。

「放っといてイーから――」

 戒史は煩げに首を振って取り合わない。
 そんなような問答を何度も繰り返した後、和草は遂に癇癪を起こして、

「それは、私が見たって治る訳ないわ、けど、心配ぐらいしたって――いいでしょう!?」

 その言葉を聞いた戒史は、一瞬きょとんとした。二、三度瞬きを繰り返して、和草を見つめる。
 それから呆れたように問いかけた。

「アナタ俺のこと嫌いでしょー?」
「ええ」
「だったらー、心配なんか必要じゃ、」

 ばしっ

 小気味いい音を立てて戒史の頬が鳴った。
 二度目だ。

「馬鹿じゃないの?」

 心底歯痒く、和草は怒っていた。

「その言葉そっくりそのまま返すわよ。私のこと嫌いなんでしょう?」
「そーだけどー……?」

 戒史は訳がわからないといった顔で聞き返す。

「じゃあ放っておけば良かったじゃない」

 真新しいはずの和草のシャツ。その右脇腹の辺りに、血の跡がついている。戒史の傷は左脇腹。それは和草をシャワールームから外に出す時に、負った傷ではないのか。
 いっそ恩着せがましくそう言ってくれれば、和草も気にはしないのに。

「勝手な事しないでよ、嫌いなら放っておいてよ!心配しない訳にはいかないじゃない、そんな事されたら……!」

 和草は怒りながらまた戒史の頬をひっぱたいた。先程よりは、軽く。

「傷を見せて」
「――了解ー」

 戒史は和草の迫力に押されたのか、渋々シャツを脱いだ。
 濡れて重くなったその生地は、絞れば血が滴るだろう。

「…………」

 苦しげな息を吐いて、戒史は真っ直ぐに上半身を壁に寄りかからせた。

「バッグからー……ナイフと、アルコール……後、包帯、とってー」

 開けたバッグにはごちゃごちゃと整理しないまま銃器類が詰められていて、和草は要求されたそれらを探し出すのに苦労した。
 指定されたものを取り出す。しかし和草は、ナイフだけは渡すのに躊躇した。

「……何に使うの?」
「んー……いやほらねー、弾、が……ひっかかって、貫通、してないのがある、からー……散弾は、ちょーっと、厄介……」

 銃弾は戒史の背中から入った筈だが、残っているものがあるらしい。掠めたわき腹の傷とは別物か。

「急がないと、ねー……血、ちょーっと出過ぎちゃったみたいだしー……」
「……」
「血まで、オイルで代替出来るようには、なってない……」

 戒史は和草の手からナイフをさっと奪い去ると、ジーンズのポケットからライターを取り出した。その仕草からも、痛みを堪えている事がわかる。この肌寒い空気の中、戒史の頬に汗が伝った。みるみる広がっていく、血溜まり。
 ライターの火でナイフの刃をあぶる。その手も震えていた。

 しばし呆然としていた和草は、戒史の意図を悟ると声を張り上げた。

「……無理よ!だって傷は背中なんでしょう?ちゃんとした手当もできないのに……!」

 戒史は和草を無視して、作業を続けた。

「見えないのにどうやって弾なんか取り出すつもりなの!」
「クラクラするからー……おーきな声、出さないで。これがあるから……」

 戒史は左手首から『聴覚』のディスクを外すと、『触覚』のディスクをジーンズから取り出した。

「……手探りで……やるの……?」
「そーゆー、ことー」

 和草は恐ろしい物を見る目つきで戒史を見つめた。『触覚』などセットしたら、それは細かい感覚が、簡単に知覚できるようになるということだ。痛覚さえ過敏になるということだ。

 ぱしっ

 戒史が手首にセットしようとしたそれを、和草は思わず叩き落とす。

「――馬鹿!そんなの、付けた途端に気絶しちゃうわよ……!」

 ぐら、と、いきなり戒史の頭が傾ぎ、和草の方へ倒れ込んできた。あわてて抱き留めた身体は、酷く熱い。
 酷く、熱い。

「早く止血しなきゃ――いくら機械で強化してたって、こんな」

 戒史はもう半分意識がないようだ。
 和草は何秒か逡巡した後、喉を鳴らしてナイフを見つめた。

「私が、やるしか――」

 震える手で、ナイフを握りしめる。冷や汗が背中を伝った。

 戒史の身体を地面に横たえ、傷口を確認する。おびただしい、後から後から溢れてくる血が邪魔だ。
 戒史のシャツでそれを拭うが、またすぐに新しい血が零れてくる。

 血を取り除くのを諦め、和草はナイフを傷口にあてた。右手が震えているのを、左手で押さえ込む。そうしたらその代わりに、歯ががちがちと鳴った。

「……私が、やらなきゃ……」

 溢れる血の間から見えたのは、細い細い千切れた導線。










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