「帰りたいか?」
「……何処へ?」
「お前が、帰りたいと言っていたところへ。帰りたいか?」

 月は戒史を壊れかけたベッドへ降ろして、問いかけた。

 早足で歩く月の後を、黙ってついてきた和草。もう人が住まなくなって大分経つであろう、朽ちかけた民家に侵入し、やっと一息ついたところだった。

「今なら、戒史はお前を止めない」
「帰る場所……」

 ふ、と和草は自嘲気味に呟いた。

「もう帰れない気がするわ」
「何故?」
「私、さっきね」

 和草は疲れたような、歪んだ目をして月を見た。

「この男を殺してやりたいと思った」
「…………」
「笑う?人殺し、って貴方達をなじったけど。本当に殺してやりたいと思ったわ。今もよ」

 低く笑いながら、和草は戒史をぼんやりと見つめる。

「裏切られた、と思った。――こんな奴嫌いなのよ、それは本当。でもね、自分でも解らないけれど……」

 自分の頭を人差し指で示す。

「ここが、そう言っていた。筋違いなのはわかってるのよ、こいつも私のことが嫌いだって言ってたんだしね」

 月は、ついさっきまで『普通の女』だった人間を、感情の読めない瞳で見ていた。明かりのない室内は、昼だというのに、夜よりも表情が見えにくい気がする。

「帰りたいか?」
「帰れないわ」
「――帰りたいか?」

 月はその問いをまた繰り返した。和草は一瞬沈黙してから答えた。

「わからない」

 月は和草から視線を外すと、そうか、とだけ呟いた。和草は今度は逆に尋ねた。

「……貴女は?帰らないの?」
「何処へだ?」

 月は戒史の寝ているベッドに腰掛けると、煙草に火を点けた。薄暗い部屋の中で、その灯が目立たないのは何故なのだろうか。

「――帰る場所、ないの……?」
「そんな訳でもない。──その気になれば、俺はいつでも行ける」

 月は煙草の灰を床に落とし、踏みにじった。
 薄汚れた床に、微かに黒い痕が広がる。

「煙草を吸っている時、俺は帰る場所に帰っているのだと思う」
「どういう意味?」
「懐かしい気が、微かにする」
「……?」

 和草の疑問の表情をそのままに、戒史の身体をひっくり返し、背中の傷を見た。
 固く巻かれた包帯からも止まらずに血が滲んでいて、ベッドは既に汚れている。

「この男が死んだ方が、お前は幸せなのか?……放っておけば死ぬが」

 淡々と呟いた月には、依然として表情がない。

「……何でそんなに冷静なのよ?パートナーなんでしょう?」

 あまりに冷たく見える態度に、思わず尋ねた。
 月は、珍しい事にひとつだけ溜息を吐いた。

「それをどういう意味で言っているのかは知らないが、一応言っておく」
「何よ」
「俺は男だ。つまり、戒史と性的な関係はない」
「え?」

 和草は意表を突かれ、思わず間抜けな声を出した。
 月はその反応は放っておくことにしたらしかった。煙草を左手に持ち替えると、包帯の上から戒史の傷口に右手を当てた。白い手が、じわりと赤く汚れていく。

「目を閉じてくれ」
「ど、どうして?」

 月は少しだけ目を伏せた。

「あまり……見られたくはない」

 これから彼女、いや、彼が何をするのかはわからないが、和草が初めて聞く月の困ったような声だった。

「……何が?」

 それは何を見られたくないのか、という問いかけだった。
 和草は、月には、見せたくないようなそんなものはないのではないかと思っていたのだ。全ての造作が奇跡のような、美しい人。

「…………」

 月はしばらく考え込んだ。
 それは、殆ど何でも即答する月にしては非常に珍しい事だったが、それを和草が知るわけもない。
 戒史であれば片眉を上げるぐらいはする異常事態だったが、彼は今、意識不明の重体だ。

「――何を、見せたくないのだろうな、良く解らない……」

 独り言のようにそう呟くと月は目を閉じて、アイケアグラスを外した。

「見ていたいのなら、そうしても良い。ただ、この事は戒史には言わないで欲しい」

 和草の返事を待たず、月は自分の右手に意識を集中させた。
 最初は、何の変化も見られなかった。

 突然、ふ、と部屋の中がぼんやりと明るくなった。

「な……!」

 月の手に光が灯り、発光していた。まぶしくはない、間接照明のような光。
 まさしく、月のような光だ。

 和草が固まって目を見開いていた何秒かの間を経て、その後、それは突然終わった。部屋がまた薄暗く翳る。
 月は目を閉じたままアイケアグラスをかけ直し、戒史の身体をひっくり返した。仰向けにされた彼の寝息は、規則正しいものになっていた。

「……黙っていてくれ」
「…………」

 驚きで何も言えなかったが、和草は心の隅で妙に納得してもいた。
 月というのは神秘的な感じのする人物だったから、こんな事が出来てもあまり不思議ではないな、と、そんな馬鹿なことを思う。

「貴方、医者になったらいいのに」

 三分ほど沈黙して、ようやく出てきた言葉がこれだ。
 他に気の利いた言葉など思い付かなかった和草は、少々自分が情けなかった。

「気が向けばな」

 和草は、何故彼が『W/P』などという仕事に就いているのかと疑問に思った。
 思った途端、あっと言う間に口をついて出てしまう。

「……どうしてこんな生活してるのか訊いてみても、いい?」

 月は溜息をついて煙草を投げ捨て、踏みつけた。床は焦げもしないで、火はそのまま消える。煙一つ残さずに。

「自分が必要とされる理由がなければ生きられない。そういう人間もいる」

 それは明確な答ではなかった。だが、月にその先を訊くのは躊躇われ、和草は追及を飲み込んだ。
 代わりに、ベッドに眠る戒史を指して和草は尋ねた。

「……この男は?」
「自分で訊くと良い。ただ」
「ただ?」
「……いや、何でもない」

 月はそのまま立ち上がり、部屋を出ていく。小さな廃屋は平屋で、台所兼居間と、トイレとバスルーム、それからこの、壊れかけたベッドのある寝室しかなかった。

 扉が閉まる直前、月の声が僅かに隙間から滑り込み、和草の耳を射た。

「俺には其奴は、あまり強い男に見えない」
「…………」
「いつも、泣き出しそうな顔をしている」

 扉が閉まる。沈黙ばかりが詰まっている部屋で、和草は自分を殺そうとした、自分が殺意を抱いた男と二人きりになった。

 薄汚い、男。黒い服も、白い包帯も、血塗れ。そしてそれと同じになってしまった、この自分。
 帰れないのではない。おそらく自分は、帰りたくないのだ。
 この男を置いては、帰りたくない。

「なんで」

 口から勝手に滑り落ちる呟き。

「庇ったり、したのよ………」

 縋り付いて泣き喚くことの出来る関係なら、もっと楽に傍に居られたのだろうか。










過去は既に永遠