目を開けると、見慣れない天井が映った。見慣れない、というより、見たことがないと言った方が正確だった。
 けれどその部屋は夢の続きを思わせた。

「紗希(Saki)……?」

 眼前で目を見開いている女の金髪を一房、持ち上げる。そのまま指先で優しく辿る。
彼女の青い目がますます丸くなった。

 ぱしぃん!

 寝起きの頬に平手を喰らって、戒史はきょとんとした。

「寝惚けないで。誰と勘違いしたの?」
「あー……」

 怒りのこもった和草の瞳に会い、戒史は曖昧に笑うと、ぱた、と手を落とした。溜息を吐く。

「……勘違いなんか、してないよ」

 戒史は小さな声で呟いた。和草には聞き取れなかったらしく、聞き返して来る。

「今、なんて言ったの?」
「……何もー」

 ふ、と戒史は一つ息をついた。

「俺のこと、殺したいのー?」
「……さっきの話、聞いてたの?」

 戒史は呆れて溜息を吐いた。

「もしかして、ホントにそーゆー物騒な話してたのー?この大怪我人を前にしてー?」
「え……」
「だーから殺意のこもった目で、びーしばし見詰めてたワケだー……」

 和草は言い難そうに切り出してきた。

「あの人にも訊いたんだけど」
「何をー?」

 上半身を起こし、血の付いたマットレスに手をつく。スプリングは死んでいた。
 壊れかけのベッドには何も期待していない。

「何でこんな仕事、してるの?……ううん、違うわ。何で……」

 和草は強張った表情のまま、はっきりと言った。

「楽しんで、人殺しをしてるの?」

 ──楽しんで、人殺しを?

「……そーだねー……きっと、何処へ行くんだって、何処へ進むんだってね?そうしなきゃいけない理由とそうしちゃいけない理由があって……ちゃんと、選んでるつもりなんだけど」

 戒史は拳をぎゅっと握りしめる。

「何もない、綺麗な綺麗な道なんて、俺にはわかんないんだ……」

 赤くない道など、戒史には用意されていない。
 けれど、そんな事は和草には伝える必要はなかった。そう思い、戒史は少しだけ後悔した。

 そのまま、出来る限り優しく笑う。

「出てって」

 和草はしばらく動かなかったが、やがて身を翻して去っていった。
 ぱた、と軽い音を立てて扉が閉まる。

「……大きな傷があったからって……自分が偉い訳じゃない……」

 自分に言い聞かせるように、そう言って戒史は瞳を閉じた。

「貴方を傷つける理由には、ならないね……」

 生温い空気と静寂。
 いつも、ベッドヘッドの傍に置いていた筈の薬瓶を無意識に指が探る。けれど、何にも触れられなかった。

「紗希……」

 その名前は、味気のない狭い部屋に吸い込まれて、消えた。





+++ +++ +++





「紗希って、誰?」

 どうでも良いとは思ったが、和草は月に訊いてみた。
 断じて気になっているわけではない。間違えられて不快なだけだと、そうやって自分を納得させながら。

「紗希?」

 突如として迫ってきた和草に胸ぐらを掴まれたまま、月は聞き返した。

「それは戒史が良く寝言で呟いている名だ」
「……寝言なんて言うのアイツ……?」

 和草は呆れて、月から手を離した。

「昔の恋人か何かだろう」

 月はソファーに身を沈めて、箱から旧式の煙草を取り出した。
 月を取り巻く廃屋のダイニングには、曇った窓と、割れた窓とすり切れたカーペット、ソファーとテーブルくらいしかないが、それは彼の美しさを少しも損なわない。

「あの男が、恋人を思いだしてめそめそするわけ……?」

 憮然とした和草の口調に、月が少しだけ口の端を上げる。

「戒史にも、人間らしさはある」
「……貴方にも、あるの?」
「どうかな」

 曖昧な答えを返した月に、和草はふと、思ったことを言った。

「貴方達って、あんまりお互いのこと知ってるわけじゃないのね?」
「そうだな。食事の趣味はわかるが……その程度だ」
「それしか知らないの?」
「ああ」

 その言葉に、和草は眉を寄せた。
 短い時間の中で知った月の口癖を取り出してみる。

「『問題ない』って言ったらそれこそ問題よ」
「……そうかもな」

 月はあっさりと賛同すると、煙草に火を点け、和草の顔に煙を吐きかけた。

「ごほっ」

 涙目で咳き込む和草を見て、月は満足そうな動作で煙草を吸い続けた。無表情は変わらないけれど、そう見える。
 美しい月の隣に座るのは気が引けて、和草はキッチンに見えなくもない部屋のくぼみに身を滑り込ませた。

 気にならないと言えば嘘になる。独りにしてくれと言った今の戒史と、つい先程、何の感慨もなく和草に銃を突きつけた戒史のイメージが重ならなくて、戸惑う。

 そして、わからないのは、自分の心。
 何故か、何故か、懐かしくてたまらない。その理由がわからないことがひたすら怖い。

 それから、和草は月と色々な話をした。
 戒史について、和草にはわからないことが多過ぎる。それは不利だと判断したからだ。

「何で、貴方達は一緒にいるの?」
「似た者同士だからだろう」

 戒史と月は、外見からして全く違う。性格だって、近しくはない。
 いつも何処かにふわふわ漂っているような戒史と、しっかりと地に立っている月。

「似たもの同士?それって、どの辺が?」
「わからない」
「あのねぇ」
「全ての物事に、いちいち理由が付けられる訳ではないだろう?」

 和草は、その言い草に呆れた。

「でも、そういうこと知りたいって思わないの?」
「……さあな」
「貴方の人生に関わっている人でしょう?」
「そうかも知れない」
「かも、じゃないわよ。そうなの」
「そうか」
「……だからそうやって自己完結しないでよ」

 月は答えなかったが、和草は沈黙を勝手に了承と解釈した。
 少しの静寂の後、月が唇から煙草を離したタイミングで、和草は言おうと思っていた事を言った。

「……貴方、悪い人じゃないわね」
「そうか?人殺しだよ、俺は」
「そういう意味じゃないの」

 ならどういう意味かとは、月は聞いてこなかった。
 ただ、少しだけ黙った後、短く言葉を返した。

「……ありがとう」





+++ +++ +++





「具合はどうだ?」
「まーまー」

 月は戒史の額に冷たい手を当てた。

「熱い」
「そりゃー、ちょーっと熱が出るのはしょーがなくないー?」
「そうか」
「月子ちゃんはー、風邪も引いた事なさそーだもんねー……アンタと居て、こんな怪我した事も、ないしねー……」

 戒史は苦笑して、額から月の手を外させた。

「おじょーさんは?」
「さて……その辺りの部屋で寝ているだろう」
「逃げちゃうんじゃなーいー?」
「帰れない、と言っていた」

 そ、と、興味もない様子で呟く戒史に、月は話を切り出した。

「これから、俺らしくない事を訊くが」
「何、それー」
「何を悩んでいる」
「……何も、って言っても、きっと信じないんだよねー?月子ちゃんみょーに思い込み激しーからー」

 戒史は溜息を吐くと身体を反転させて月と向かい合った。目は合わせなかったが。

「ホントにらしくないよー、月」
「『俺らしい』部分しか、お前が見ないからだろう」

 戒史は、怪訝そうに眉根を寄せた。

「……いきなりどーしたのさ。何がしたいのー、月?カウンセラーの資格でも取るつもりー?」
「いや」
「月が解決出来る俺の悩みはー、寝起きの悪さくらいだよー」

 冷たく断ち切るように、戒史は続ける。

「誰にでも、事情ってーのがある限りはさー。たまには暗い顔もしたくなる。そう言ったろー?初めて会ったときにさー」

 その言葉に、月の眼が少し彷徨った。
 その仕草を、戒史は頼りなげに感じた。それは月に対してそんな感想を抱いたのは初めてだった。

「……覚えていないな」
「そりゃズルいよー」

 傷口を気にして、戒史は包帯の上から手を当てながら確認した。
 疼く気がする、そんな言い訳をして月とは目を合わせない。月も溜息を吐いた。

「悲劇の主人公気取りか。奈落の底に穴を掘るのは楽しいのか」
「……月」

 戒史は嫌な笑いを張り付かせた顔を上げた。ゆっくりと、グラス越しに合う視線。

「人の事に構ってー、余裕を見せ付けちゃってくれてるワケー?俺、そんな聖人君子とは知り合いにもなりたくないねー」
「……」
「月は、そんな『イイヒト』じゃーないと思ってたのになー」

 戒史は軽い軽蔑の眼差しを月にくれた。

「無駄な事はしたくないよー。月には俺の事なんてわからないし、わかってもしょーがない。だろー?」

 月は戒史に冷え冷えとした視線を投げ返すと、低いところにある戒史の身体、正確に言えば負傷した脇腹を、乱暴に──明らかに相手に痛みを感じさせる目的で、小突いた。
 傷の上を殴った、と言っても良い。

「ぐっ、あ」

 突き抜ける痛みに脳天を刺され、戒史の視界が少し歪んだ。

「――ああ、わからないだろうよ、どんな事も。わかったふりをしているだけだ。……でも、そんなことを言った所で、それこそ無駄だろう」
「……くっ」

 無表情に言う月に、戒史は右拳を振り上げた。
 だが、『A』の拳など、『C』に当たるわけがない。

 軽くはたいて拳をいなされ、戒史は舌打ちしてベッドに沈む。
 そのままマットに頭を埋め、深く深呼吸をして痛みをやり過ごそうとする。

「……ズルいよー……」

 戒史は体を丸めて、右腕で顔を覆った。
 月はベッドの脇に立ったまま、隠されたその顔を見下ろす。

「……何で今頃、そんな事言うのさー?」
「…………」
「アンタは、絶対そんな事しないと思ったからー……だから、俺はアンタと一緒にいたのに……ズルいだろ」
「そうか」

 月の冷たい声が戒史の耳を通過する。
 ひやりとした感触だ。氷が肌の上を滑るような。

「俺が死んだって眉一つ動かさない。それが、月でしょー……?」
「ああ、そうだな」

 予想通りの答に戒史は苦笑した。

「……俺は確かに、お前が死んでも泣きも喚きもしないだろう」

 月が、愛用の旧式の紙巻煙草を取り出す音。火を点ける音。戒史の身に馴染んだ音。
 日が陰ってきている。

「普通に物を食べて、普通に眠る。映像通信も見るし、時事情報配信も受け取るだろうな。買い物をして、任務に従事して。いつも通りだ」
「……」
「それがお前の望みだろう」
「……うん」

 子供のように戒史は頷いた。悲しげでは、ない。

「けれど俺は、お前を甘やかさないから」

 戒史の身体がピクリと震えた。

「……時々、思い出してやる」

 頭の中で何かが喚いて、戒史の体を締め付ける。
 それは警告。これは致命的、だと。己にとって、致命的なものだと。

「は……それ以上言っちゃダメだよー?」

 そうでなければ。

「俺――殺しちゃうから」
「…………」

 戒史は仰向けになった体を起こし、顔から腕を外した。
 一切の感情が見付けられないのに、戒史は笑っていた。顔だけが、いつもそんな風に全てを取り繕う。

「せっかくのパートナーを殺したく、ないんだ。うん、多分ねー。だからホント、黙ってねー?」

 戒史の顔の中で、眼だけがぞっとする程、光っているだろう。
 揺らぎもしない液晶レンズの瞳。光はあるが、それだけ。

「殺せばいい」

 月は全く動揺せずに、自分の銃を抜いて戒史に放り投げた。戒史が受け取るのを確認してから、月は眼を閉じる。
 戒史はそれの弾倉を確認し、手に握った。

「どーせ、殺さないとでも思ってるワケー?あの時みたいにー?」

 月はあっさりと切り返した。

「いつからお前は殺人にいちいち断りを入れるようになった」
「月子ちゃん──」
「……やり易いようにして欲しいのか。簡単だ、一言で済む」

 戒史が一瞬沈黙し、その隙に月はその言葉を舌に乗せた。
 戒史の表情が凍った。

「『俺は天使を信じ』」
「────よせぇっ!!!」

 ごがっ

 戒史はベッドから跳ね上がり、月の顔を殴りつけた。グラスが飛ぶ。

「っ………」

 後頭部を壁に強打し、月は壁に沿って崩れ落ちた。簡単に避けられたはずだが、そうはしなかったのだ。
 赤色の瞳が、ゆっくりと戒史を見上げる。
 戒史の身体はぶるぶると小刻みに震えていた。

 月は、密やかな声で言った。

「……わかっているんだ。俺とお前は似ているから」











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