人混みは鬱陶しくて仕方ない。

 誰も彼もが男の通り過ぎた後を振り返る。好奇と羨望、鑑賞の視線。
 そんなものには慣れていたが、不快だ。

 男は大通りを逸れて、脇道を進む。

「紫(Yukari)!」

 突然肩を強く掴まれて、男はたたらを踏んだ。
 無遠慮な腕を振り払い、歩き続けようとする。けれど、声は思いの外しつこく追いすがってきた。

「紫だろ!?」

 荒々しい剣幕で怒鳴りつけてくる少年。
 男は振り返ってそれを見下ろすと、素っ気なく冷たい声を送った。

「……何の用だ?」

 その返答に、少年はカッと頬を紅潮させた。

「この野郎……!!」
「……?」

 殴りかかる拳を軽くいなして、男は彼に向き直った。

「言い訳があるなら言ってみろ……!」
「何の話だ」

 男は無表情に少年に問う。

「ふざけるな!」
「落ち着け」
「朱音(Akane)が……お前を何度呼んだか知ってるのか!どうして消えた!?勝手に、放り出して!独りで。苦しませて……!何でだよ!?」

 少年の瞳は潤み、零れそうな涙を堪えているのが見て取れた。
 けれど、その理由は男には全くわからない。

「朱音を愛してただろ……?」

 聞き覚えすらない名を突き付けられて糾弾されても、男の表情は変わらない。
 誰かを愛した覚えすらないのだ。

「最期まであんたの名前を呼んでた!!苦しんで苦しんで苦しんで、死んだ!!!!!」

 激情のままに男の胸ぐらを掴みあげた少年は、そのまま糸が切れたように大人しくなった。
 男はその手を襟首から外させる。

「自殺だよ……?」

 少年は俯きながら、震える言葉を綴った。

「墓参りくらい……してやってくれ」

 男は溜息をついた。そして、冷静に言い放った。

「そんな女は知らないな」

 がっ

 男は拳を避けなかった。

「……………」

 切れた唇を拭いもせず、少年を見る。
 興奮しているかと思った少年は、静かに立っていた。ただ、その色を失った頬には、涙が幾筋も滑り落ちていた。

「忘れたのか。また」

 少年の目の中には、青白い炎が見える。業火だった。

「だったら勝手に生きてても、いいよな。勝手に何処へ行っても。文句を言う筋合いじゃないよな。俺には関係ないよな。迷惑だよな」

 冷たい、炎だ。

「……でも言わせろよ。何でお前は忘れて……そんな簡単に、生きて」

 少年は喉に言葉を詰まらせた。

「……死ねよ……」

 心の底から吐き捨てられた言葉にも、男の心は動かない。

「人違いだ」

 握り締められた少年の拳から、力が抜けた。

「……そうだよ。人違いだよ悪かった。でもこれだけは聞いとけよ。朱音って女がいたんだよ。紫って男を死ぬほど愛したんだよ。朱音はそいつがいなきゃ生きていけなかったんだよ。……愚かか?でも朱音は」

 怖いほど冷静になった瞳が、男を刺す。
 少年は男の胸を叩いた。

「……お前だったから!知ってたかよ、黙って手をくれたそんなお前だったから!!」

 それほど愛したんだ。

「何を言っている?」

 血を吐くような叫びにも、男の態度は変わらなかった。
 数秒の、長い時間の後、かすれた嗤い声が、少年の喉から滑り出る。

「……あーあ、やってられない」

 目からは炎すら消えて、陰りしか残らない。

「はは……行けよ」

 男は無表情にそれを見つめる。

「……あんたほど哀れな人間を、他に知らない」
「…………」
「死ぬほど後悔するといい……!!」

 男は沈黙を通した。

「行けよ」

 少年は、もう彼に興味を失ったらしく、ゆっくりと背を向けた。
 そして聞こえるか聞こえないか、それ程の小さな声で呟く。

「お前なんか。俺は知らない…………人違いだった」

 そして、静かに立ち去っていった。
 男は、しばらくその場に立っていたが、やがて同じように歩き出した。

 そして街には霧雨が降り出す、四年前の冬。










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