「酷い男だろう」

 月は煙を吐き出して、そう言った。
 こんな煙に意味などは何もない。けれど月はこれを手放さずにいる。覚えている限り、ずっと。

「勿論、男に、死ぬ程の後悔などというものはやってこなかった。それ以前に、その男は少年の名前すら知らなかった。綺麗に忘れていたんだ」

 戒史は月の顔をじっと見た。けれど、いつも通りの月だった。
 美麗な顔に、何の表情も浮かべない。無機質と言える程、平坦な月。

「しかも、それからその男が何をしたかというと……何もしなかった」
「──」
「何も、してやらなかった。その少年が、何処で犬のように死のうと、男には関係がなかった」

 月は煙草を噛んで呟いた。

「酷い話だ」

 旧式の紙巻煙草。
 今では手に入れるのに苦労する、しかも、『C』の体には何の影響も与えないそれを、月は離さない。

「俺の脳の容量は限界を超えているらしい。記憶が片端から消えていくんだ。笑えるだろう?」
「……すごくね」
「消えない情報は、無駄な事ばかりだ。この頭が壊れている事実から消す事が出来れば、問題はないのだろうに」

 戒史は月から目を外した。逃げるわけではない、見ていても何の変化もみせないであろう事を理解したから。

「四年と半年。ただそれだけだ。特別な事でさえ、不確かで……そう、お前と会ったのは、丁度四年と五ヶ月程前だったか」

 月の声はいっそ空々しいほどに平坦だった。

「だったら、後、一月で」
「月?」
「お前も」
「月」
「消える」

 けれどそれでも、その薄皮一枚隔てた内側に、何もないと言えるだろうか。
 月は変わらない。けれど、火のついた煙草を握り潰せば当然火傷する。おそらく、痛みも感じる。

「何も残らない。全てが消える。お前と会った事も、お前に関して思った事も。全てが」
「……『ソンナモノハ、ナカッタ』?」
「そう。それで終わりだ。何年かは空白に悩まされても……それだけだ。それだけなんだ」

 それは会話と言うよりも、月の独白だった。

「またいつか……同じ事を同じ様に繰り返して、でも。同じ雨を、同じ様に見て、同じに美しいとは言えない。もう、返っては来ない。こうやって忘れていくのか。また。何度も。いつまで」

 月は変わらない。変えられない。

「思い出を重ねすぎて、もう前が見えない。自分が消えていくのかも、知れない。次はお前の思い通りに、お前の邪魔などしないかも知れない……」

 月は立ち上がり、窓を開けた。こもった血の臭いが、少しばかりの脱出口に殺到する。

「ならばそれはもう、『俺』ではない」

 それが死でないと言えるだろうか。
 月は窓から空を見上げた。霧雨は、降っていない。

「それはもう俺ではない……」

 煙草がないので、月は素直に溜息を吐いた。
 戒史は、光を返さない目で月を見た。遠いものを眺める視線だった。

「――あんたも、俺を忘れるの?」
「ああ」

 月は否定しなかった。戒史は唇の端をつり上げる。

「記憶が消える……それは完全で完璧な、消失?」
「ああ」

 戒史は安堵したように笑った。しかし、月はその眼に違う光を見た。

「……じゃー、今度は、俺の話をするよ」

 これはただの傷の舐めあいだ。唾棄すべき弱さだ。
 けれど、この狭くて息苦しい世界で、一人きりで耐えられるとして、それが幸せなのだろうか。

「忘れられた側の、話」





+++ +++ +++






 和草が帰ってきたとき、居間に月の姿はなかった。辺りの廃墟から見繕ってきた、包帯に出来そうな布をテーブルに置く。

 ソファーの上に、月の荷物が放り出されていた。
 戒史はまだ寝ているのだろうか?何か食べる物でも作ろうかと思ったが、そんな自分に耐え切れない気がして、和草はその思い付きを打ち消した。

 とっくに日は落ちている。
 和草は肌寒さに身を震わせて、居間に備え付けの石油ストーブに目をやった。今時アンティークだが、燃料が残っているなら使えないこともなさそうだ。月の荷物の中から、旧式のオイルライターを取り出す。

 ぼっ、と炎が灯り、部屋の中が明るくなる。
 部屋の蛍光灯は外されていて、ストーブの炎が唯一の光源だった。
 炎に晒された顔はすぐに熱くなる。胸も。背中はまだ冷え切っているのに。

 炎が踊っている、その様子を和草はじっと見つめた。
 炎というのは、熱い。でも普段は、それがどれ程の高温かなどという事は、気に留めない。

 けれど本当は、こんなに熱いのだ。溶けてしまうほど。

 左の手のひらが、ちりっとスパークした。皮膚の上に浮かんでいる、ただれた蝶の焼き印が。和草は左手を伸ばして、炎をすくい取ろうとする。

(拾わないと)

 何を拾うのか、そんな事は和草にはわからなかった。
 ただ、半ば無意識に手を伸ばす。

「……何してんのー?」

 はっ、と和草は身を震わせて振り返った。
 戒史がいつもの皮肉げな笑みを浮かべて、戸口に立っている。

「ま、別にどーでもイーけど」

 戒史は怪我のことなど全く気にしない様子で、どかっとソファーに座り込んだ。

 和草は身の置き所が無く、無言で目を逸らした。
 戒史は銃を無造作に机の上に放り出す。

「おじょーさん、もうイーよ?」

 その言葉の意味が掴めず、和草はいぶかしげな視線を向けた。

「もー、帰っていーよ」

 友好的な笑みを浮かべてこちらを見てくる戒史に、一瞬和草は呆然とした。

「なによ……いきなり」

 足が震えている気がした。

「勝手に」

 勝手に連れてきて、勝手に変えて、勝手に思い出させて、勝手に放り出すのか。
 憤りに、和草はめまいを感じた。

「バカじゃないの」

 和草は戒史に近寄ると、机の上に手を滑らせた。
 戒史は嘲笑を含んだ目つきで和草を見ている。

「まだ私が変わってないって思ってるのね?」
「……変わってない?おじょーさん、アナタ何にもわかってないねー」

 和草の手が、放り出されたままの戒史の銃を握る。
 左の手のひらが、ちりっとした。

「わかってないのはあんたよ」

 見よう見真似で安全装置を外した和草の手が、震えもせずに持ち上がる。そんな状況でも、戒史なら一瞬で和草を殺せるというのは、彼女も充分理解していた。

 死への恐怖心は、無い。何故か。ただ、また捨てられるのだという事実が怖かった。
 戒史は腕をソファーの上にだらりとのせ、和草を見上げる。

「わかってるよー?」
「……」
「アンタは俺を殺せない」

 その自信は何処から湧いてくるのか。和草は唇を噛んだ。
 一番悔しいのは、その通りだという自覚がある事だった。

「アンタは『人殺し』にはなれない」

 戒史は和草のことなど眼中にないように、天井を見上げた。

「だって俺のこと、嫌いでしょー?」
「そうよ嫌いよ……大嫌いよ」

 和草は無表情に答えた。

「だからこうするの」

 和草はトリガーに触れる指先に力を込めた。
 戒史はいつでも、避けられる。

(だけど……)

 避けなかったと、したら?
 何故かそれは確信を持って、和草の心に忍び寄った。避けなかったら?
 死ぬ。当たり前だ。誰が、殺したのだ?

 自分だ。

 和草はぼんやりとした虚ろな目つきで、腕を持ち上げた。戒史の表情が、変わる。
 こめかみに銃を押しつけた和草は、壮絶な笑みを浮かべた。

「死んでやるわ」

 ありがちすぎて、涙も出てこない。





+++ +++ +++





 月がその廃屋に帰ってきたとき、居間には頬を腫れさせた和草が一人で座っているだけだった。
 軽々しく動いて良いような傷ではない人間が見当たらない。

「戒史は?」
「知らないわ」

 冷たい部屋に固い和草の声が反響して、月はまた、面倒事があったのを知った。
 床に座り込んでいる和草の方は見ずに、ソファーに腰掛ける。何があったのかは薄々予想が付く。

「勝手じゃない」

 唐突に口を開いた和草に驚くこともなく、月はゆっくり視線を向けた。

「勝手よね?」
「そうだな」

 月は溜息と共に言葉を吐き出す。

「泣けばいい」

 顔をあげる和草を見下ろして、再度。

「泣け」
「…………」

 月も、和草もしばらく黙っていた。
 そして、和草は立ち上がり、その廃屋を出ていった。月は引き留めず、和草は振り向かなかった。





+++ +++ +++






「月ー、お腹減ったよー」
「問題ない。耐えろ」

 冷たい言葉に、戒史はがくりと肩を落とす。

「ヒドーい、俺怪我人だよー?」

 月は答えず、黙々と銃の手入れをしている。

「朝御飯ー。この際あの謎の液体でもイーからさー」
「あれは結構上等な素材を使っている」
「……そーなの?」

 ふ、と溜息をついて月はソファから立ち上がった。

「お前、考えてもいないのか」
「何ー?」
「このままでは、和草は死ぬ」
「……何?」
「死ぬ、と言った」

 戒史の気配が、冷える。

「里村健吾がいる」

 そこまで聞いて、ようやく戒史は理解した。

「こちらの情報を引き出す為に、奴が何をするか考えて見れば良い」

 健吾は間違いなく超一流の『W/P』だ。労せず敵を倒すためなら何でもする。和草が二人と一緒に行動していたことは、既に判明しているだろう。
 月に折られた右腕は何の問題にもならない。薬を使えば、痛みは簡単に消せる。

 ただの民間人相手に左腕一本で何の不都合があるのか。人差し指一本でも事は足りる。
 拷問でも、強姦でも、同じことだ。

「へぇー……で、俺にどうしろって言うのさ?」
「別に」

 月は冷たく言うと、煙草を咥えた。

「したいようにすればいい」
「じゃ、放っとくけどー?」
「……そうか」

 月はそのまま部屋を出ようとした。

「ドコ行くのさー?」
「……さあな」

 気楽な戒史の声に、月は振り向かずに答えた。

「もしかして月子ちゃん、怒ってるー?」
「さあな」

 ぱたん、と軽い音を立てて扉が閉まる。
 戒史は何もなくなった部屋の中で、俯いた。
 生温い日差しが首筋を焼いて、訳もなく笑い出したい気分になる。

 戒史は強くなくなった。

「月……帰って、来るよね?」

 弱くなった。

 戒史は腕をまくり、何度目かの注射を打った。
 これで確かに、痛みは消える。感覚と共に。

 中途半端なのだ、全てが。
 全てを壊すか、全てを殺すかしてくれればいいのに。中途半端に生かしておくからこうして苦しむはめになる。

「…………」

 戒史は無言で、『眼』のディスクを付けた。

「来いよ」

 そして親しげにそう言う。
 部屋の扉が――静かに開いた。





+++ +++ +++





 和草はあてもないまま、裏通りをふらふらと歩いていた。こんなところを若い女が一人でぶらついていれば、ろくな事にならないのはわかっていたが、どうでもいい。

 何でこんな気持ちになるのか、もう本当はわかっていた。

 自分が自分でないような、不思議な気分で和草は歩いていた。虚脱した精神が、色々な執着をなくしていく。
 だから、予想通りに数人の男に囲まれても、なんとも思わなかった。
 暗がりに連れ込まれて押し倒されても、覆い被さった男がいきなり吹き飛んでも。

 絡んできた男達は、いきなりの暴虐に、何が起こったかを理解していただろうか。けれどそれについても特に感想はなかった。

 ただ、自分を見下ろす冷たい視線に、少しの失望を感じたのは確かだった。






+++ +++ +++






「…………」

 彼は、和草の周りの男を全て一瞬で叩きのめすと、壁により掛かって彼女を観察した。手を差し出したりはしない。

 すっかり汚れてしまった金髪が、彼女の顔に張り付いている。
 彼女が自分を見る目に、少しの失望が浮かんだのは気のせいではないだろう。
 誰を待っていたのかは、知っている。

 ふっと背後に人が立つ気配がして、彼はゆっくりと振り向いた。殴ったばかりの男の内の二人が、立ち上がってきていた。
 据わった目つきで、ナイフを抜く彼らに、少しの哀れみを感じたかも知れない。

 飛びかかってくる男の腹を加減して蹴り飛ばす。男は吹き飛んで壁に叩きつけられ、ピクリとも動かなくなる。
 彼は銃を抜くと、もう一人はこちらから飛び込んでいき、柄でこめかみを殴りつけた。

 音もなく崩れ落ちる男に目もくれず、彼は和草の方を振り返った。
 気絶していなかったらしい男がもう一人、和草に向かってナイフを振り上げている。和草は抜け殻のようになっていて避ける気配が無く、男は和草を人質にするつもりではないようだ。

 間に合わない。彼は溜息をついた。

 きゅんっ

 男の額にぽつりと穴が開き、そのままの勢いで和草の方に倒れ込んで行く。
 和草は腕を広げて、その男を抱き留める。ごく、自然な動作で。

 金髪はまた、血にまみれた。
 死体の頭を抱いたまま、彼女は彼の方を向いた。青いガラス玉が、彼の身体を滑る。

「すまないな。戒史ではなくて」

 月は煙草に火を点けると、壁により掛かった。
 薄暗い路地。自分の棲み処だ。気のない様子で、和草の腕の中の死体を見る。

「……俺もいつか、こうやって死ぬだろう」

 暗い路地裏で、血と硝煙と泥にまみれて。独りで死ぬだろう。
 いつかは、自分の番がやってくる。当然だ。そうでなくては不公平で、そんなことは許されない。
 どんな人間も本当はそれを解っている。ただ、見ないふりをするだけだ。

 わかっている。

「嫌な末路だ。……それでも」

 それを認めて、それでも月は生き延びようとしている。

「……アイツも?」
「さあな」

 温度のない白髪が揺れて、月の表情を覆い隠した。
 和草は、死体を地面に横たえた。

「貴方は――どうして、私を助けてくれるの」
「どういう意味だ」
「この前貴方は―――アイツの為に私を助けたと言ったでしょう?今度は何の為?」
「さあな」
「そればっかり」

 うんざりしたように、和草は頭を振った。

「……俺がそうしたいと思った。理由があるとすればそれだけだろう」

 和草は驚愕し、月をまじまじと見つめる。

「……私のことが好きなの?」
「残念だが、違う」

 和草の言葉をばっさりと切って捨てると、月は路地裏から細長い空を見つめた。

「それでも、俺が出来ることなら、少しくらい何かをしてやれる。それくらいには考えている」
「……なんで?」

 月は、淡々と言った。

「親近感がある……この答でお前は納得するか?」
「親近感……貴方と、私が?」
「ああ。だからお前に、聞きたいことがある」










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