「死んでやるわ」

 戒史は黙って立ち上がり、和草の腕を掴んだ。
 指が食い込んで腕が痛かったが、それはむしろ和草にとって喜びだった。

「俺への当てつけ?」
「うぬぼれないで」

 戒史はその、無機な目と爬虫類の視線で和草を見た。
 理解できないものを眺める視線。

「ふうん。イーよ、別に」

 そしてあっさりと手を離す。

「……死ねば?」

 冷たい返答に、和草は傷ついた様子を見せることなどしなかった。
 躊躇わずに指先に力を込め、戒史を睨み付ける。

「これでやっと別れられるわ。じゃあね、下種野郎」

 視線は外さずに。引き金を。
 最期だと思った瞬間に、歪んだ蝶が見えた。

 がつっ

 和草は酷い衝撃を頬に受けた。
 しかしそれは熱い鉛玉ではなく、冷たい手の為だった。殴られたのだ。

「!」

 和草は衝撃で床に転がった。銃は部屋の隅に滑り、硬い音を立てて跳ね返る。
 痛みに身体を丸め、和草は床の上でぎゅっと肩を抱いた。痛い。

 誰かが、がく、と膝をついて――

「……っ!」

 気が付くと、和草の身体は二本の腕に巻き取られていた。
 自分の手で肩を抱いていた、それよりも強く、床の上で座ったまま締め付けられる。

 混乱して、頭がついていかない。そういえば、前にもこんな事があった、と他人事のように考える。
 戒史の身体の震えが、伝わってきた。

「────」

 その時に、ようやく現状が把握できて、和草は寒さではなく、震えた。

 背後から回されている腕は、温度がないのではないかと思うほど冷たく、骨が軋むほど強く圧迫してくる。
 抱きしめられている。
 理由はわからなかったが、和草はそのまま、その腕に収まった。

 自分の行動も、この気持ちも、わからなかった。
 そのまま、数時間に思える、数秒。

「っ!?」

 突然、戒史が息を呑んだ。彼の身体がこわばり、巻き付いている腕の力が緩んだ。
 その手が、和草の首筋に向かって伸びる。

 ――ぞくりとしたものを感じて、和草は怯えた。

「……ちぃっ!」

 ざくっ!!

 身近で聞こえた物騒な音に、和草は視線を下に向けた。血の臭いが鼻を突く。
 己の胸にナイフが刺さっていた方がまだ驚かなかった。けれど、そうではなく、和草は目を見開いた。

「く……」

 戒史は、自分の足に深々とナイフを突き立てていた。
 そして、一度ゆるんだ手が、また和草を抱きしめる。まるで、縋るように。

「……何故……?」

 和草は唇を震わせて、問いかけた。
 戒史の身体の震えは止まる様子を見せず、和草は、抱き締め返したいと強く思った。

 耳元で発せられた戒史の声も、酷くかすれていて、和草は、彼が泣いているのかと思った。
 小さな、微かな、声。

「うん……何かにしがみついてないと流されちゃうからねー……なんてったって軽いんだよー、この命……」

 次の台詞に至っては、空気を震わせることもなかった。だから、和草には聞こえなかった。

「……死ぬなよ」

 それからしばらくの間、彼らは動かなかった。
 震えは結局、止まらなかった。





 それから、戒史は和草を突き放した。全く、唐突だった。
 表情の見えない機械のような瞳で、下卑た表情を浮かべて。

 体を離し、見下すように見下ろしてくる。

「お願いしたら、ヤらせてくれるー?」
「……な」
「金なら払うよー?どーせ、あんな時間にあんなトコふらふらしてたんだから、娼婦でしょー?」

 戒史は凍った視線で、和草を見ていた。クスクスと嘲笑いながら、黒い蝶が歪む。
 ぐい、と顎をつかまれ、上を向かされた。

「優しくされたらすぐその気になるのー?イーね、簡単で」
「!」
「お望みなら、アイシテルって言ってあげても、イイよー?」

 この上なく傲慢で冷たい態度。その言葉には温度も感情もなかった。

「いつもはいくらで、売るの?」

 ひゅっ

 和草の手のひらを、いとも簡単に戒史は避けた。軽蔑の視線を投げつけ、和草の耳元で囁く。

「……ホントは、満更でもないクセに。知ってるよー?俺のコト、好きなんでしょー?」
「……っ!!」

 戒史は興味の失せた玩具のように和草を放り出した。立ち上がり、部屋から出ていく。

「飽きた」

 なんて酷い、死刑宣告。
 ぱたん、と扉が閉まって、部屋は静寂に包まれた。





+++ +++ +++





「大嫌い……大嫌いよ」

 和草は己の肌に爪を立てながら呟く。

「殺してやりたいわ?ホントよ?」

 唇を真っ青になるほど噛み締めて、和草は戒史を罵倒する。

「あんな男は、幾千万の苦痛を浴びて!」

 血を吐くように、和草は憎しみをぶつける。

「死ねばいい!!」

 和草は叫び、地面に手を叩きつけた。

「苦しんで、嘆いて、泣き叫んで死ねばいい!」

 和草の瞳に、暗い焔が燃えていた。
 月の視線が、ゆっくりと絡まる。

「……大嫌いよ。ゲス野郎」

 月は黙って、聞いていた。

「死ねばいい死ねばいい死ねば……いい!!」

 和草から目を離さなかった。和草は、声を限りに慟哭する。
 その躰が震えて。その瞳から一筋、涙がこぼれ落ちた。

「――でも……なんで?」

 ぽたぽたと、血染めの地面を濡らしていく。

「なんで?なんでよ、ねぇ……なんで?」

 誰か答えて欲しい。何故?

「死ねばいいのに」

 憎しみの呪詛のはずなのに。

「……死ぬほど……愛してるわ」

 和草は泣きながら地面に崩れ落ちた。

 月は電流を浴びたように身体を固まらせて、和草を見ていた。
 月の煙草が、落ちて白い煙を上げた。


「愛してる……」










グレイス