その男は、泣けなかった。 泣きだしたいと思ったが、泣けなかった。 ただひとつの感情が、彼を押し流す。 それに名前を付けることは出来なかった。 一番近い名前を付けるとするなら、彼はただひたすらに――ひたすらに。 「記憶が無くても……遺るものは……ある」 嬉しい、と。 「遺るものは、ある」 +++ +++ +++ 「貴方の『ディスク』を頂きに来ました」 「もしかしてー、砺波はそれだけの為にゲーム始めたとか、言わないよねー?」 「『W/P』を強化する為なら、どんな手段も選びませんよ。若槻を潰して、次の視野も広がる」 里村健吾はにこやかに、戒史に近づいてきた。月に折られた右腕には、何の支障も見受けられない。 かたや戒史には、脇腹の銃創と、太股の創傷がある。 それでなくとも、この接近した距離では圧倒的に『C』が有利だ。 しかし、戒史はそんな危機など感じていないかのような表情で、無造作にソファの上に伸びていた。 「座ればー?」 戒史は今は健吾に攻撃する気がないと、『わかって』いた。 健吾は少し拍子抜けしたように、しかし素直に戒史の向かいに腰を下ろす。 「『ディスク』ねー。コレが、そんなに欲しいー?俺を殺して、奪えば?」 健吾は苦笑した。 「それが出来れば簡単なんですけど。でもそれって簡単に奪える物じゃないでしょう?若槻だってそれくらいのプロテクトはかけてますよね?」 ク、と戒史は嘲笑した。皮肉げに、唇をつり上げる。黒い前髪で、目が隠れた。 「せーかい。残念ながら俺を解体すれば奪えるってモノじゃあ、ない。仕組みがわかんなきゃー意味ナイ」 左手首のスロット見せつけ、翳す。 「完全な予知が可能っつーワケでもない。ただなんとなーく、先のことが解るだけ。全然わかんないときも、よくあるしねー」 「それだけでも、充分ですよ」 健吾の目に、物騒な光が宿った。 「知っている情報を全部、教えていただけます?」 「ヤだね」 ぴくり、と健吾の頬が動く。 「状況を理解した発言ですか?」 「だってー、もうすぐ月子ちゃん帰って来るからねー」 「そんな気配は……」 「『眼』や『耳』でわかるワケじゃー、ないんだ」 戒史は、ぺろりと上唇を舐めた。 健吾が渋面になる。 「タキセ・C・月ですか……」 健吾は腕組みした。着込んだスーツは戦闘には向かないが、似合っていることは間違いない。 『A』の能力で捉えたか、健吾が口を開いた。 「到着まで後十秒?」 「七秒。七秒じゃ、俺を拷問して口を割らせることなんか出来ないねー?」 「どうせ拷問じゃ、吐かないでしょうし。訓練受けてるでしょう?」 健吾はにっこりと笑う。 「……何ー?」 いぶかしむ戒史に、健吾は無情に言葉を突きつけた。 「オレ、もう解ってるんですよ」 「何を、」 「『W/P』が、弱点を作るなんて……正気の沙汰じゃないってことはね」 +++ +++ +++ がしゃああああああん 派手な音を立て、窓ガラスが割れる。白色の光が乱反射した。 「月」 健吾は窓を蹴破って部屋に飛び込んできた月と視線を合わせた。 「……やっぱり、置いてきましたか」 「?」 「でも……その方が、余計に危ないですよ?」 健吾は悪戯が成功した子供のように満面の笑みを浮かべて、いきなりきびすを返した。 鮮やかに流れるような動作で、割れた窓から飛び出て姿を消す。 月が疑問に思う間もなく、ざっ、と戒史の顔色が変わった。 「待て!!」 戒史は健吾の後を追った。 一瞬動きが止まった月だが、健吾の意図を悟るとすぐに戒史の後を追って身を翻らせる。 和草を一人にしている。 「──」 体力的に圧倒的に勝る月は、先に飛び出した戒史には瞬時に追いついた。 しかし健吾は『C』でもある。その姿はもう、見えない。 月の指が素早く動いて、左手首の差込口からディスクを取り出した。即座に口にくわえた別のディスクを押し込む。 月は戒史を追い抜くと、加速した。後六秒あれば、和草のところに到着する。 が、健吾は既に着いているに違いなかった。月の白髪が、一直線に靡いた。 +++ +++ +++ 「はい、チェックメイトです」 ごり、と金髪に無骨な銃を突きつけて、健吾が嗤う。 月は、立ち止まった。 「戒史さんが来るまで、後三十秒位ですかね。怪我しているのに、ご苦労なことです……で、一つ、オレには損な提案なんですが」 「何だ」 月は無表情に健吾を見つめ返した。 「この女、ここで殺した方が戒史さんの為なんじゃないですか?」 「────」 「ただの足手まといでしょう?オレ達みたいな職業じゃね」 月の細長い指先が、ゆっくりとグラスを外す。白糸が揺れる。 紫電が、健吾の身体を走った。 「……戒史の為?」 氷の視線が、辺りの温度を下げる。 「そんなものが関係あると思っているのか?」 グラスが、地面に落ちた。 「待てよ」 月の動きが止まる。戒史は、荒い息を整えながら健吾に向かって笑った。 「そーんなセコいマネしなくてもさー。月子ちゃん怒ると怖いよー?」 「ナイスタイミングですねえ」 戒史の右足、左脇腹からは鮮血が流れ落ちて、辺りに血の臭いをばらまいている。 それを見て、和草の顔色が変わった。 放っておけば、死ぬかも知れない。いや、確実に。 「んで、どーすればいいワケー?」 こめかみに押しつけられた固い感触よりも、和草は目の前で流れる赤の方が気になった。 目が、離せない。 「……その『ディスク』、俺にくれますよ、ね?」 「らじゃー。じゃあ、まず」 戒史は、一瞬も迷わなかった。ただの一秒も、停滞しなかった。 笑みを浮かべて。 袖からコンバットナイフを引き抜き―― 和草の目が大きく見開かれる。 びゅっ 瞬間、全てがスローモーションに映った。 「え……?」 ざくっ 戒史の左手首から噴き出る飛沫で、視界が真っ赤に染まった。 |
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