「……思い切りが良いですね。半分くらい、いきましたか?」
「うん。ちょうど半分かなー……」

 戒史は、自分の血と脂にまみれたナイフとまだ収まりそうもない出血には、何も感じるものはないようだった。
 ぷつん、とコードが幾本か切れて。

 びゅっ

 間髪入れずに、もう一度。

 ぐじゃっ

 先程の音とは違う、切る音では無く、肉を潰す音。
 ばちり、と少し火花が飛んだ。

 じゃぐっ

 肉を擦り切る音。
 戒史は表情一つ変えずに、腕を振り下ろし続けた。
 凄惨すぎる光景。

 びじっ

 戒史の左手首は、皮一枚だけ残して、腕から離れた。
 切断面から覗くのは、チューブと骨。

 ぶづっ

 それを右手で千切り取る、戒史の顔には、脂汗が浮き、多量の出血のせいで唇は真っ青だった。
 黒が、赤く染まっていく。

「…………死んじゃうわ」

 和草は、瞬きすることもなくそれを見つめていた。顔色は、戒史に負けず劣らず真っ青だった。

「死ぬ……?ねえそんなの許さないから。放っといたら死んじゃうでしょ……絶対に、許さないわ……月!!助けてよ、その男を!!」

 いきなり暴れ出した和草に、健吾は鬱陶しそうな視線を向ける。

「ねぇ私の事なんか構わないでよ余計なお世話なのよ!!助けて、助けてよぉ!月!!」

 月は温度の変わらない赤の瞳で、和草を見つめた。しかし、動かなかった。

「ハイ、あげるー」

 戒史は無造作に、『ディスク』を。自分の左手首を、健吾に向かって放り投げた。
 血をまき散らしながら飛ぶ手首。それを健吾は片手で受け取った。

「後は、使い方を教えてもらえれば」
「ふざけないで!!」

 がしっ

 和草がもがきながら健吾の腕を噛む。

「……鬱陶しいですよ」

 それは明らかに、健吾のお気に召さなかったようだ。冷ややかな薄笑いを浮かべて、引き金に力を込める。

「死にますか?」

 がうんっ!

 銃声。その瞬間。

 ばちっ





 視界が、白く染まった。





 里村健吾は、三メートルほど吹き飛んで、地面に転がった。和草も、反対方向にだが吹き飛んだ。
 眼鏡のフレームは曲がり、スーツの表面は殆ど焼けこげている。

「何……が……起こった?」

 呆然と、地面にしりもちをつきながら顔に手を当てる健吾。
 その視界に、殺気をまとった白色が映った。

 ばちっ

 月の左手に紫電が走っている。アイケアグラスに隠されないその眼は、今は閉じられていた。

「っ!!」

 飛び込んでくる紫電に、健吾は地面を転がった。これほどの醜態を晒したのは初めてである。

 どがっ

 コンクリートが、穿たれ、焼け焦げる。

「………………!」

 健吾は、自分が月の逆鱗に触れたことをようやく理解した。
 次の判断は、おそらく最善のものだったはずだ。

 健吾は戒史の左手首を握りしめたまま、ディスクを入れ替える。

 だっ

 いつかの月と同じような手口で、健吾は一目散に逃走した。
 それも、健吾に取っては初めての経験だった。





+++ +++ +++





 どさっ

「…………!」

 和草は倒れている戒史ににじり寄った。血に汚れた手で地面を掴み、這いずった。
 健吾の放った銃弾は和草の肩に、穴を開けていた。

 銃口は爆発で逸れ、頭を吹き飛ばされなくて済んだのは幸いだった。
 しかしそんな痛みよりも。

 前にもこんな経験があったような気がするのだ。届かないものに、必死に手を伸ばす。
 這いずりながら。

 戒史の黒髪に――手が、届いた。

 泣きそうになりながら、彼の頭を抱きしめる。戒史の周りは血の海だ。
 震える手で、呼吸を確かめる。

「なんで……!」

 これも前に言った台詞だ。
 こんなみっともない台詞を、女に何度言わせる気なのか。

「かばったり、するのよ……!」

 泣きたい。けれど、泣いてはいけない。
 和草は顔を上げると、救いの手を求めた。

「月……助けて……!!」

 ふ、と月の肩から力が抜ける。
 くるりと振り返った彼は、やはり無表情だった。何故かそれに安心する。

「傷……塞いでよ……ねえ……お願い!」

 血に塗れながら、和草は戒史の頭を抱いている。

「何でもするから……!!」

 は、と何かに気付いたように月の目が見開かれた。

「──離れろっ!」
「月の怒鳴り声、初めて聞いちゃった、なー?」
「!?」

 和草は腕の中の戒史を見下ろした。目が、開いていた。凶暴なほどの安堵が、せり上がってくる。

「和草……離れろ」
「?」

 月の言葉の意味が分からずに、和草はもう一度戒史を見た。
 黒い瞳。そこには。

 何も、感情が映っていなかった。


 どずっ


「……なん、で……?」



 腹からナイフの柄を生やして、和草は地面に崩れ落ちた。





+++ +++ +++





 戒史はゆらりと立ち上がった。
 月は眉をひそめる。もはや戒史は動ける状態ではない筈だった。

「…………」

 足元の和草を、石ころか何かのように蹴飛ばす戒史。
 まるで機械のような、瞳。

「…………はは」

 一度、聞いたことがある笑い声だと、月は思った。そうだ、あの少年。
 その心を、自分が殺した、あの少年。

 暗い暗い、深い穴。絶望が、見える。

「はははははははは」

 ぎゅ、と月は拳を握りしめた。

 だんっ

 笑い続ける戒史を地面にひき倒す。
 戒史の身体は、どこもかしこも血で濡れていた。それなのに、ひどく、冷たい。

 冷えている。
 その血の温度さえ、今はわからない。

「……もう、良いでしょ?ねぇ……もう、いいよ」

 耐えられない。そう言って、疲れたように戒史が笑った。
 その身体はこわばって、その眼は光を返さない。死体のように。

 こうなると、わかっていたのかもしれない。

「月……」

 促すように、戒史はその名を呼んだ。
 無機物の眼。
 その中に、感情があると思ったのは気のせいだろうか。

 いつかの、あの、霧雨の向こうに。


「わかった……殺してやろう」


 月が言った。
 戒史はまた笑った。諦めた笑いだった。


「だから、アンタがホントにそう出来るくらい冷たかったら……よかったのにね……」










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