闇の中。覚醒しているのは月一人だった。

「……大丈夫だ」

 月は血塗れの二人に語りかける。いや、それは独り言なのかも知れない。
 月の右手が光り、二人の傷を癒していく。

「彼女はお前を忘れていない。記憶を無くしても……まだ」

 月の光も届かない路地裏で。
 彼は、何かを決意したのかも知れない。

「……遺るものは、あった」

 闇の中、月の表情は見えなかった。





+++ +++ +++





「…………」

 戒史は、失望と共にゆっくりと目を開けた。
 貧血で目眩がする。けれど何故か、傷口からの出血は止まっていた。痛みも少ない。今度こそ、死んだと思ったのだが。

 ディスクを使わなくても、彼女の規則正しい呼吸が、耳に入ってきた。
 罪悪感と安堵が、一緒にせり上がってくる。

 元から暗いのか失血のためか、あまり利かない視界。片隅に、白の光が引っかかった。

「月……」

 面白い程喉に引っかかる声。しかし、届いた。

「起きたか」
「…………」
「いい。喋るな」

 月は戒史の方は向かずに、また、空を見ていた。いつも通りの無表情で。

「……殺してやる事にしたんだ。お前を」

 そう言って、月は銃を抜いた。

「あの時、お前は俺に訊かなかったが――俺は何故記憶を無くすのだと思う」

 空を見上げ続ける月。

「俺は何故、こんな力が使えると思う」

 ぱち、とスパークする紫電。

「そして俺は今――何歳だと思う?」
「……え?」
「実は俺も良く解らない。忘れてしまった。少なくとも、多分、百歳は越えているんだろうと思っている。もしかしたら、千歳かも知れない」

 月は静かに言葉を綴った。

「――記憶が消えるのは、俺が何にも執着してはならないからだ。わかるか。何かに心を残すことが、俺には許されていないんだ」

 白色の光。

「わかるか――俺が一体何だか、解るか?」

 月は戒史に向かって、自分の銃を放り投げた。
 そして、長袖の服を、脱いだ。

「!!」

 戒史は息を呑んだ。
 月の白い背中。滑らかな肌が続いている筈の、その背骨の両脇。

 皮を、剥がした痕があった。
 力任せに引き剥がしたのだろう、目を逸らしたくなる、無惨な痕が。

「……これが何だか解るか?」

 戒史に背を向けたまま、月が問う。

「剥がした痕だ」
「……何、を?」

 ぎゅ、と戒史は銃を握りしめる。
 ごくりと喉が鳴る。――聞きたくなかった。

「……翼を」

 硬質な月の声が、戒史の耳を射る。

「剥がした、痕だ」

 ばちり、と、戒史の脳の奥で何かが悲鳴を上げた。

「お前の──若槻の嫌いな……『怪物』だ。信じている程度ではない、そのものだ」

 綺麗な、白髪。

「お前が完璧な『お人形』なら」

 綺麗な、赤眼。

「俺を殺すだろう……構わない」

 綺麗な、貌。

「試してみろよ」

 綺麗な、綺麗な。
 化け物。


 ――人は何も知らずに、苦しむ


 戒史は無言で立ち上がり、銃を構えた。片手でもよどみない動作で、安全装置を外す。
 無機質な、眼。殺意すらない、瞳。
 月は戒史に背を向けたまま、振り向かなかった。

 そのまま。戒史は穏やかにトリガーを引く。
 躊躇無く。
 なんの迷いもなく。

 いつもと、同じように。

「馬鹿だな……俺を信じるのか?」

 冷たい声。響く銃声。
 暗い――路地裏。


 ――人は罪を知らず、罰を知らず、無知を知らず、善を知らず、悪を知らず、無意味を知らない
 確かなものは何も知らない


 月の背中に穴が開いた。
 間髪入れずに、もう一つ。もう一つ。

 赤い血が吹き出し、辺りの地面にばらまかれる。
 月は呻き声一つ漏らさない。
 振り返りもしない。

「くだらない情かよ?ああ、ご立派な事だね天使様」

 六発。戒史は銃に弾を込め直した。

「アンタが、俺を救えるとでも思ったの?はは……面白いよ」

 く、と嘲笑う。
 引き金を引く。
 引き金を引く。

「俺の祈りが聞こえたか?……何も、してくれやしなかった」

 引き金を引く。

「くだらないね」













 ――人は悲嘆にくれ、思い悩み、自身を傷つけ、世界を傷つける
 そして絶望のうちに縋るその手を私は振り払い、突き落とす



「……お前はまだ、わかってない」

 月は血を吐いた。七発目の銃弾が、胃の辺りを通過するのがわかる。
 衝撃で身体が跳ねる。
 血の固まりが、喉を圧迫する。声すら、今は満足に出せそうにはなかった。

「俺に救われたいのか?違うだろう。
 俺は救いたいのか?違うな。
 俺は、お前に、言っただろう……」



 ――貴方を救うのは私ではない
 貴方の足首を掴むのは、罪ではないのだ
 無知ではないのだ
 善ではないのだ
 悪ではないのだ
 貴方の絶対の領域で、貴方は苦しみ、そこでしか苦しまないのだから



 思考能力が、急速に鈍ってきている自覚はある。
 八発目。肺に五つ目の穴が開いた。呼吸が、出来ない。視界が、赤い。
 ――即死できないのも、辛いものがあった。

「俺に頼るな。俺も……お前に頼らない」

 肺に血が溜まっていく感覚。不快だ。
 激痛に、月の意識は遠ざかる。

「ただ」

 九発目。身体が冷える。寒気を感じる、しかし流れ出る血は熱い。
 なんだ、ちゃんと温度があるじゃないか。冷たく、ない。

「それでも、俺が出来ることなら……少しくらい……何か…を……してやれる……」

 十発目。

「それくらいには、考えているから」

 月は、ゆっくりと倒れた。
 路地裏の、薄暗く汚らしい土の上に。



 ──世界は私ではなく、貴方だということを貴方は知らない











「はは……死んだ?」

 辺りは一面血の海で、戒史はようやく銃を降ろした。

「ねぇ、死んだの?」

 新月の晩。薄暗い路地裏。血と、硝煙。

「馬鹿じゃないの、月。アンタ無駄死にだよ。なあ?こんなくだらない事で、さ。こんなくだらない終わり方。無様じゃないかよ?なあ。
 ……なんで俺を信じるのさ?
 俺ですら信じられないのに。
 なあ。アンタ、酷い奴だね。
 信じられないくらい残酷だよ。
 平然と、俺を突き落とす……!
 アンタの言ったとおりだね、俺、死んじゃったじゃないか。ねぇ……『アンタを殺せない俺』が死んじゃったじゃないか……!ねぇ?あんまりだろ……」

 銃が、血溜まりに落ちた。

「……こんなくだらない、俺を」

 白髪は、光を返さない。

「捨てていくんじゃ……あんまりだろ」

 戒史は倒れ伏した月に近寄って、抱き起こした。左手がないので、酷く不器用に。
 戒史の躰からは大量の血液が失われている。その為か視界も暗く、狭い。寒い。

 月の顔が、よく見えない。瞳は、閉じられていた。
 血塗れの、それでもなお、綺麗な月。

「冷たいヤツ……」

 戒史は笑った。冷笑でも嘲笑でも、ない。
 月の顔に、水滴が落ちた。



 ――世界は私ではなく、貴方だということを貴方は知らない












「なんだ……泣けるんじゃないか」




「お前は『W/P』失格だ」
「殺せなかっただろう」
「まだ、終わっていなかっただろう?」
「お前がそれを許すなら」
「どんなことも自由だ」
「殺さなかったじゃないか」
「お前が、決めた事だろう?」
「本当の『お前』が」
「確かめられたか?」
「お前、泣けるんじゃないか……」




『泣きたいように見えるんだけどなー』
『お前も、そんな顔をしている』











 殺してやった。お前の望みだ。
 俺に出来ることを、少しはしてやれただろうか。

 泣けない男は、もういない。










夜明け前