2124・01・22・0338時。
若槻政府の通信電波。

『ID:171……ナマ……史が』
『暗示……滅』
『危険状態』
『……の可能性………く』
『有能であ…が……の為』
『……な状態である事が予測され』
『緊急事態』
『廃……処理が、望ましい』


ショリガ、ノゾマシイ。OK?





















「ハイ、長官補佐」

 国家防衛軍『W/P』管理部に勤めるカサイ・N・美奈美は同僚に気楽な挨拶をした。

 長い黒髪に、シャープな輪郭。スーツをきっちり着こなしてこちらへ向かい颯爽と歩いてくる。
 タケダ・N・誠は不機嫌な顔で頷き返す。きちんと手入れされた濃いブロンドの髪を撫でつけて、度のあまり入っていない眼鏡を直した。

「ちょっとご報告」

 美奈美は狭苦しい廊下の壁により掛かり、手元のファイルを探った。

「これが再調査の結果。手配して貰った『フランシーヌ』からの映像を見ても、『SIX』が向こうの手に渡ったのは間違いないみたいね」
「そうか」
「それと……171の暗示が解けたのも確か。019の『SIX』での予見だけど、今ある駒の中では019の感知能力はダントツだから疑う余地はないと思うわ」

 また一枚、ファイルをめくる美奈美。

「『Canary』は研究班に回したわ。欠陥があることはこれではっきりしたワケだし、もっときちんとしたモノを作らせるつもり」

 美奈美はルージュを引いた紅い唇をぺろ、と舐めた。肉食獣のように。
 誠は苦々しげに唇をゆがめた。

「それで171は――」
「あの子?惜しいわよね、せっかくイイ子だったのにね」

 美奈美はスーツの胸ポケットから出したハンカチでわざとらしく目元を拭う。

「わざとらしいことわざとらしく訊かないでよ。壊れた玩具はどうなるの?なんて。嗚呼可哀想」
「しかしあの能力は――」

 美奈美はファイルの中から一枚の書類を抜き出し、誠の胸に押しつけた。

「私だってあの子は惜しいと思うけど。かなりの傑作だったしね、結構苦労したのよ?でも、上の決定は覆らないわ」
「……そうか」
「なんかあちこち破損しちゃったらしくて、今まで通りのお仕事は出来なさそうだし。それならまだしも狂っちゃったら危ないから。ほら、頭でっかちさんたちは身体能力ゼロでしょ、どこかから狙撃されたりしたらあっさり死んじゃうし。171は、『W/P』としてはもうあんまり役に立たなそうだけど、流石に仕返しとかは簡単に出来ちゃうから。手を噛む飼い犬は保健所にって、ね?」

 その書類は、171の処分の決定を示していた。誠はそれを美奈美に突き返す。

「我が儘なことだ」
「だから、頑張ってあやしてあげないといけないんでしょ?そんなことより、『SIX』が向こうの手に渡った方が問題。アレって、確か開発班が爆破装置とか付けてたわよね?役に立つとは思わなかったわ」

 美奈美は腕時計を確認した。

「171の『処理』はヒラタ・A・新哉の実行班にお願いするわ。本日の1200時までに、どうぞ」
「わかった」

 誠は長めの溜息をついて、きびすを返した。






+++ +++ +++






 戒史は、ソファに横たわる月の前で、もう長い間目を閉じていた。

 動かない、というより動けない、といった方が適切なのかもしれない。痛みは既に麻痺し、身体の端末が、妙に冷えている。

 遂に壊れたな、と実感無く思った。でも。

「死ぬ覚悟なんざクソクラエだ。んなもん要らねーんだよ……」

 まだ、諦めない。
 生きたいと、ようやく思えるようになったのだ。

 戒史は目を開けて月の様子を見た。『ディスク』がない為、嘘のように感覚が遠い。
 本来ならば、目を開ける手間など必要ではなかった。

 普段から白い月の肌の色が、巻いてある包帯と見分けが付かないほどに白くなっている。あれだけの大量失血だ、人間ならば、例え『C』でも死んでいるだろう。

 十発の弾丸は、至近距離からの発砲だった為か、全て貫通していた。
 月を引きずって通った道には、冗談のように太い血の筋が付いたのだ。それには、戒史の血も含まれていたけれど。

「ゴキブリ並みの生命力だねー、月子ちゃん」
「余計な世話だ」

 冗談めかしていった台詞に、答えが返ってきたことに驚く。

「寝たフリー?ホント趣味悪いねー」
「今起きた」

 信憑性の全くない言葉に、戒史が苦笑する。
 月はゆっくりと目を開き、またゆっくりと閉じた。

「寝るのー?」
「……お前は和草を見舞え」
「うわー、こーしてるのも辛いのにー?」

 そう言いつつ、戒史はのろのろと立ち上がった。激痛に、目眩がする。
 身体ではなく、心の。





+++ +++ +++





 里村健吾は降り出した霧雨をカフェテリアのガラス越しに見、溜息をついた。
 傘を持ってきていない。

 よく冷えたグレープフルーツジュースをストローで掻き回す。子供っぽい味覚だと自分でも思うが、彼はこの手のものを好んだ。
 ストレスを感じたときに、彼はこういう行動を取る。
 先程から人が通る度に、彼のテーブルを見て目を丸くしていた。

 オレンジジュース、アップルジュース、グレープジュース、メロンソーダ、ピーチジュース、レモンジュース、コーラ、パインアップルジュース、ロイヤルミルクティー、そしてグレープフルーツジュース。

 商品見本のように並べられたそれらの飲み物を、先程から里村健吾は一口ずつ飲んでいた。好奇の視線は全く気にしない。
 眼鏡のフレームに手をやり、健吾はその書類を再び見直した。

 『緊急通達:カナマ・A・戒史の『W/P』登録抹消』

 ふう、と健吾はまた溜息をつく。
 やる気なく手を挙げ、ウェイトレスに合図を送る。笑顔の仮面と共に。

「あの、ストロベリーミルク、お願いします」

 メニューに、謎の緑色の液体、とかがあったら斬新だろうに。





+++ +++ +++





 寝室の扉が開き、黒い男が入ってきた。
 最初に見たときと同じ、黒い服、黒い髪、黒い瞳、黒い蝶。違うのは、もう無い左手首と、影の消えた眼差し。

「起きてたんだねー。どー?気分は」

 淀みのない足どりでベッドに近づいてくる戒史に、怪我による不自然さはない。
 和草は気付かれないように、そっと安堵の息をもらした。

「はい、痛み止めー。すぐ効くから、今飲んでねー」

 手渡されたのは赤いカプセル。

「…………」

 頭の奧がなぜか警鐘を鳴らし、和草はそれを不審そうに眺めた。

「要らないわ……飲みたくない」
「聞き分け、ないねーおじょーさん」

 戒史は呆れたように溜息をもらすと、ベッドに腰掛けた。

「おじょーさん、口開けてー?」

 ぷい、と横を向く和草に、戒史は苦笑した。

「こっち向いて」

 いきなりぐいっ、と顔を引き戻されて、和草は文句を言おうと口を開いた。

「!?」

 目の前に黒い蝶が映っていた。

 思わず、次の瞬間口の中に入り込んできた異物を飲み込んでしまう。でも、そんなことはもう、どうでも良かった。

 和草は目を閉じて、その感覚に身を任せる。
 髪を撫でる手も。柔らかに触れ合う唇も。背中を支える腕も。

 とても優しくて、涙がこぼれた。

 それが『和草』に与えられた物ではないと知りながら。
 全てが決定的に手遅れなのかも知れないと――感じた自分を、和草は無視した。
 期限付きの幸福しか、自分達には手に入らないのだから。

 血の味が、した。
 けれど、これより愛しい口付けはない。

「……」

 その数瞬は静かに終わりを告げ、戒史は和草から身を放した。
 いつも通りの皮肉げな笑いが浮かんでいる、血の気の失せた顔。

 今にも崩れ落ちそうで、和草は手を伸ばした。
 戒史はその手の届かない場所へと逃げる。そう、逃げるのだ。

「もう、全て終わったんだ……俺が、アンタを殺したときに」

 俯いて言葉を綴る戒史の表情は、それまで見たこともないような頼りなげなもので。
 和草にはまるで意味の分からない言葉だったが、この男は勝手に自己完結してしまっているらしいと、その事は理解した。

「……何よ、それ。何が終わったっていうの?まだ始まってもいないものに、終わりも何もないでしょう?」
「そうだよー。終わったものは始まらない」
「だから終わったって何よ!?」

 和草は叫んだ。そうしてから、腹部の痛みにうめき声を漏らす。

「終わりは終わりだよー、おじょーさん。アンタは知らなくて良いけど……ずーっと昔に終わってた」

 和草にはわかっていた。
 この男は何か別のものを見ている。

「終わらせる前に私を見なさいよ!ちゃんと『私』を見てから言いなさいよ!違うとは言わせない……だってあんたは私の名前すら、呼ばない!!」

 戒史は黙り込んだ。

「私はアンタの昔の女じゃない!」

 ぱんっ

 和草の手のひらが、戒史の頬に叩きつけられる。これでもう、何度目だろう。

「ここにいるのは『私』だって……あんたは絶対に認めようとしない……!私はあんたの『紗希』の代わりじゃないし、本当は『和草』ですらないっ!そんなの、変えようと思えばいくらでも変えられることでしょう……?」

 戒史は困惑して目を細めた。

「……信じられるのはそんな事じゃない、忘れたくないのはそんな事じゃない!わかりなさいよ、鈍感!」

 これではまるで痴話喧嘩だ。

「……俺、鈍感って言われたのはー、初めてなんだけどー」
「……」
「説教食らってる筈なんだけど……はは、変だねー」

 戒史は、戸惑いながら笑っている。

「俺の事愛してるって言ってるようにしか聞こえない……」
「馬鹿じゃないの」

 まだわかっていない、この男。
 彼女は舌打ちしたい気分になった。

「……私、五年前からの記憶がないの」
「うん……」
「自分が、どういう生まれで、何をしてきたかも知らない。そりゃ不安よ?不安だわ。けれどそれでも、私が私であることは変わらないし、変えようとも思わない。何者でもない、その『私』が――」

 戒史は和草の迫力に、ややたじろいだ。

「わかりなさいよ、『ように』じゃないのよ、あんたを愛してるって言ってんのよこの鈍感野郎!!」

 ......Stay with me.

 戒史は子供のような表情で、きょとんと和草を見下ろした。まったく予想もしていない答をいきなり聞かされた教師のように。

「……嘘だぁ」

 ふるふると、首を横に振る戒史。

「アンタは俺がどんな奴か知らないからー、簡単にそんなことが言えるんだよー……」

 子供のように戒史は笑った。それは複雑な笑いだった。
 全ての感情があった。
 躊躇、驚愕、悲哀、狂喜、絶望、憤怒、平穏、愛情、陰鬱、開放、寂寥、祈願――それは、まったく、人間らしい笑みだった。

「……アンタが言ったとおりだよー?俺は人殺しでー、全く無意味にー……、何人も何人も――殺して。それで平気で、生きてて。アンタのことも……何度も殺そうとした。ホントは、こんなブザマなトコなんか、見せたくなかったんだ……!」

 ぎゅ、と胸を掴む戒史。俯いて、その眼は前髪に隠れている。

「だからさー、アンタはアンタの場所へ、帰って。まだ遅くない、帰れるだろー?」
「帰れないわよ」

 きっぱりと和草は断言した。戒史の言葉を、軽く一蹴した。

「遅いわ、遅すぎるわよ。もう帰れない、貴方を、放っておけないじゃない!そんなの、もうホントはずっとわかってた……。ずっとずっと、わかってた」


「死ぬまで一緒だって、あの時言った!!」


 Stay with me.


「思い出し、た……?」
「……思い出す?何をよ」

 和草は眉を顰めた。
 戒史は少し黙った後、また、気の抜けた笑いを浮かべた。

「そうだねー……うん、遅いってのはもう俺、わかってたんだよー……とっくに」

 何かを振り切るように、呟く戒史。
 自分に言い聞かせるように。

「でも、俺は……」

 薄暗く、無機質なこの部屋。
 和草はベッドから起きあがり、戒史を抱きしめた。血の臭いがする。

「俺は」
「もういい。黙ってよ……私は貴方の事情も、背負ってる物も、何も知らない!けど……ちゃんと貴方を、見ることは出来るんだから。黙ってよ……」
「…………うん」

 Stay with me...and don't cry.

「…………っ!?」

 和草は、自分の意識が霧の中に閉ざされていくような感覚に愕然とした。
 足元から冷えていくような、何かが吸い込まれて消えていく。戒史は彼女の変化を敏感に感じ取ったのか、その手を握ってくれた。

「……怖がらないで」
「何……これ」

 瞼がひどく重い。和草は自分の腕から力が抜けていくのを知り、恐慌に陥った。

「ごめんねー……俺はアンタを二回も、殺すんだ……」
「どういう、意味……?」

 戒史は曖昧に笑うと、そっと和草の身体を放した。ひどく優しい動作で。
 為すすべもなく、和草はベッドに座り込んだ。

「ホントは、もう、こんな思いはしたくなかったんだよー……?本当に」
「ねえ、どういう、意味よ……!?」

 急激な不安に襲われ、和草は戒史を見上げた。身体に力が入らない。
 透明な微笑みを返す戒史は、とても自然に見えた。そしてなにかを、勝手に決意している。

「何処かに、行くつもりなの?ねぇ……勝手に?違うでしょ?」
「違うよ」
「じゃあなんなのよ、ねぇ……私、ちゃんと言ったわよね?わからないの、まだ?貴方を……」

 愛してるって。

「うん……ありがとーね、おじょーさん。でも、ちょーっと、遅かったんだ」
「何言って………」
「俺も、やっとわかった……今度こそ、アナタに言える。『俺』の、ホントウを」

 戒史は和草の左手を取って、薬指に口付けた。

「君を、愛してる」

 和草の蒼い瞳から、涙が溢れた。
 この男があんまり綺麗に笑うから。
 可哀想で、とても可哀想で。
 何もできない自分が悔しくて。
 引き留めたくて。
 とても――愛しくて。

 戒史は、和草の耳元で囁いた。
 残酷な程、優しく。


「忘れて――全部」











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