戒史は暗い廊下を、身体を引きずりながら歩いた。

「かっ……は……」

 こみ上げる吐き気に耐えきれず、戒史はびしゃびしゃと血を吐いた。口元を拭い、前を見据える。
 まだ、しなければならないことがある。

 慎重に居間を避け、玄関に向かう。

「……何それー……」

 その努力も虚しく、平然としたいつもの顔で、玄関の扉によりかかっている月に、戒史は深い溜息をついた。

「せーかく悪いねー、月子ちゃん」
「問題ない。お前程ではない」
「問題あるってばー」

 全く普段通りに、癖のない白髪を垂らし、旧式の煙草を噛み、ホルスターに愛用の銃、そして、目線を隠すグラス。

「何処へ行くんだ?」

 いつものように、月は訊いてくる。

「……逃げてよー、月」

 戒史は苦笑しながら言った。

「もーすぐ、不良品の回収に、怖ーいオジサン達が来るからさー……俺は、行かなきゃならない。ケジメ、ってヤツだねー?」

 それは理解していた事だった。
 暗示が解けたときから、わかっていた末路だ。戒史はもう、『W/P』にはなれない。

「自分の女一人守れないようじゃー、ちょーと、情けなさ過ぎるでしょー?」
「守るだけか」

 月は火のついていなかった煙草を吐き捨てた。

「好きな女を自分のものにするくらい、誰にでも許されるだろう」
「俺はさー、悪役だからねー」

 月は無表情に聞いている。

「俺は……月をヒーローにしたかった。悪い怪物を倒してくれる……俺を殺してくれる、ヒーローに」
「──」
「俺、本当にずっと――手が欲しかった。月はそれを、俺にくれたから。随分長いこと、付き合わせちゃったしねー……も、じゅーぶんだよー」

 自由になれた。その結果に、後悔はしていない。
 もうこれ以上、戒史はその手に縋るわけにはいかない。

 ちっ、と月は舌打ちした。
 戒史の目が丸くなる。月の、そんな人間臭い仕草は今まで見たことがなかった。

「……少し甘やかし過ぎたか」
「?」
「俺の行動に文句を付けるとは、問題がある」

 戒史は少しだけ呆然としていたが、引き攣れた喉を動かして、いつものような台詞を作った。
 
「……月子ちゃん、ワガママ」
「問題ない」
「……怖く、無いのか……?」

 戒史はもはや『A』ではない。そして大量失血、左手首の切断、脇腹の銃創、太股の創傷で瀕死である。
 月に至っては十ヶ所の銃傷。本来ならば、死んでいなければおかしい。しかも、相手は無傷の特殊部隊だ。

 月は目を閉じて、霧雨の音を聞いた。

「怖いな。――死ぬのは怖いと思う」

 ゆっくりと、言葉を綴る。

「だが、それでも大切なものがある。だから、俺は行くんだろう」

 月は目を開けた。
 グラス越しに、視線が合う。

「それに……『死ぬ覚悟なんざクソクラエ』なんだろう?」
「やーっぱ起きてたんじゃんー……」

 戒史は憮然とした表情で月を睨んだ。それがいつもの、皮肉げな顔に変わるまで、時間はかからなかった。

「そ、だいじょーぶ。俺の『第六感』が告げてる。……悪役だからって、んな簡単に死んでたまるかよ」
「安心しろ。俺もお前と心中する気は全くないよ」
「そりゃどーも」














後悔してはいない。
俺はやっと、自分の真実を見付けた。
まだ、諦めてはいない。
見苦しくあがいてやる。
みっともないくらい、もがいてやる。

君を守るためなら、何でもしてやる。

俺は本当にすごく我が儘で。
君を傷つけることをちゃんとわかってて。
それでもこんな事をしてるんだから、何を言われても、文句は言えないね。

ただ、俺の自分勝手を許してくれるなら。
これ以上何も、なくしたくないんだ。
本当に、それだけ。
君を傷つけても、君が望まなくても。君が俺を忘れても。
君を、なくしたくないんだ。
俺にはもうあんまり、残っているものがないから。
俺から何も、奪わせない。
……何も、なくしたくない。
この我侭を、許して欲しい。


もう、俺から何も、奪わせない。















 そして、二人は霧雨の中を、いつものように歩き出した。










寂しい終末